聞法の悲劇
真宗でみられる法話の類型に「仏法を聞かねばならない話」がある。仏法聴聞の意義を語るような内容で、聞法を中心とした真宗門徒のあるべき日暮しをこんこんと解説する派生形もあれば、自らを聞法に導いてくれた「よきひととの出遇い」などを交えて「だからこそ仏法を聞かねばならないのです!」と感動的に説く例もある◆真宗の法話観は「仏願の生起本末を聞く」、つまり仏が衆生救済の願を起こした謂れやその救済原理を聞き開くことを要とする。本願寺を中興した蓮如上人は「仏法は聴聞にきはまる」と言う。「聞法の宗教」たる真宗の面目躍如であろう◆そうか。そうだよな。難儀な娑婆世界を生きる上で人は何を拠り所とするべきか。「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』後序)◆そう。そうなのだ。念仏だけが真実なのだ。道徳やヒューマニズムでは間に合わない我が身の有り様。だからこそ念仏の教えを聞かねばならないのだ! さあ、先生、その聞かねばならない仏法の話をほかでもない「この私」に聞かせてください‼◆……そう思って「仏法を聞かねばならない話」の次に展開されるはずの、ご法義の話が始まるのを今か今かと待っていると、そのまま話が終わってしまった!!! という悲劇が起こるのが常である。嗚呼。(池田圭)