時代変化への対応と訂正する力 新しい「領解文」問題に思う
大阪大教授 稲場圭信氏
浄土真宗本願寺派の大谷光淳門主が本年1月、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)を示した。浄土真宗において蓮如上人の時代から用いられてきた「領解文」だが、時代の推移とともに理解における平易さが失われてきたため、新しい「領解文」は「念仏者として領解すべきことを正しく、わかりやすい言葉で表現し、またこれを拝読、唱和することでご法義の肝要が正確に伝わる」ことを目的としている。「現代版の領解文」という位置付けだ。
この1年間、新しい「領解文」に対して各方面から声が上がっている。新しい「領解文」は門主と親鸞を同一視しているのではないか、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」という表現は教義に反しているのではないか、また、出拠が明らかにされていないなど様々な意見が噴出している。そもそもなぜ新しいものを出すのかといった反対意見もある。
中外日報の記事やインターネット上での書き込みなどを多少フォローしてきたが、真宗教学の専門ではない筆者が内容について深入りして議論することはしないことにする。ただ、議論が起きていることは良いことだと考える。本願寺派総局は、理解を広めるために、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)学習会も開催している。しかし、様々に上がる声やネット上の議論などを見ると混乱の収拾は容易ではないと思われる。
時代に対応して変化すること、また、問題がある時にそれに対応すること、それが機能しない状況には同じダイナミズムがあるのではないか。日本はある見解を変えたり、取り下げたりすることが難しい社会という見方がある。
『「空気」の研究』や『日本人とは何か。』などの日本人論を展開した山本七平による1975年から翌年の連載「日本型民主主義の構造」が、2011年に『なぜ日本は変われないのか 日本型民主主義の構造』として刊行されている。日本には「個」の組織化である「民主主義」の基礎であるべき、組織(システム)という概念がない。欧米をはじめ世界の多くの組織が合理的にできた「幾何学的組織」であるのに対し、日本は擬制の「組織的家族」であり、その目的は存続することにあると山本は指摘する。このような組織(システム)なき組織的家族の日本では、ある時には、総政治化(全体主義)を求めて動き出す危険もある。
哲学者であり批評家の東浩紀は、近著『訂正する力』の中で、「小さな変革を後押しするためには、いままでの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想が必要」と指摘する。ものごとをまえに進めるために、リセットするのではなく、現在と過去をつなぎなおす、その力が、東浩紀の主張する「訂正する力」だ。
大人はそれまでの人生において、すでに価値観が形成されており、変わるのが難しいという考え方がある。そして、宗教は生き方に大きく影響を与えるので、宗教者と宗教集団は社会に対応して変化することが難しいという見方もある。大切なものを守りながら、時代の変化に対応していく。難しいかじ取りは社会にあらゆる場で求められている。