スポーツと他力
― 中井正一『美学入門』にみる仏教の受容と修行の在り方 ―
スポーツ感覚と美感
同書の中で特徴的なのは、中井がスポーツの事例を多用し、身体運動とそこに得られる感覚を「美感」と捉えていることである。第1部の「1 美とはなんであるか」の項目「技術の中に」の一部を引く。
例えば、水泳の時、クロールの練習をするために、写真でフォームの型を何百枚見てもわかりっこないのである。長い練習のうちに、ある日、何か、水に身をまかしたような、楽に浮いているようなこころもちで、力をぬいたこころもちで、泳いでいることに気づくのである。その調子で泳いでいきながら、だんだん楽な快い、すらっとしたこころもちが湧いてきた時、フォームがわかったのである。初めて、グッタリと水に身をまかせたようなこころもち、何ともいえない楽な、楽しいこころもちになった時、それが、美しいこころもち、美感にほかならない。33久野収編『中井正一全集3 現代芸術の空間』、美術出版社、1981年、pp.7-8 本稿においては主に同全集を引用元とし、これ以降は各巻のタイトルを除いて『全集3』のように略記する。
中井はこれに続けて「自分の肉体が、一つのあるべき法則、一つの形式、フォーム、型を探り当てたのである。自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである」と言う。さらに漕艇でも、漕ぎ手の間に調和が生まれ「いき」が合うとき、美しいこころもちがわかってくるのだと述べる。このように中井は、美を自然の景色や音楽、美術などに求めるばかりでなく、身体を動かした際に出会う「こころもち」、そして「フォーム」や「型」、「いき」が合う感覚をも、美として扱う姿勢を打ち出している。
そうした中で、本稿においてもっとも注目したい部分が、第1部の「4 生きていることと芸術」の項目である。この項目で中井は、日本の芸術の中にある「間」について語っている。44『全集3』p.35そのひとつの例は、能における太鼓の音で、それは「前にも、後にもない、鋼鉄のようにしまり切った時間」をきめつけるような、快いものである。これが中井によれば「日本の芸術の時間」であり、この「間」がわかるようになるためには、訓練、練習の積み重ねしかない。さらにそれはスポーツでも同じであるとして漕艇の例を示す。そしてそこに「他力」を見出すのである。中井の芸術観とスポーツ、信仰心との関係を示す部分であるので、やや長くなるが引用する。
「間」というのは、この生きていることを確かめる時間の区切り、切断、響きなのである。(…)
そしてこの「間」が分かるのは、ただ、訓練だけであると、東洋の芸術、および日本の芸術は教えているのである。
なぜなら、この「間」は、ただ覚えたり、意識してやったのでは、常に「間のび」するものなのである。本当に「間にはまる」には、ただ訓練、一にも二にも練習がいるというのである。これは外国でも同じはずである。またスポーツでも同じである。
この練習というのは、頭で考えたよりも、もっと自然なもの、もっと大きなものが、肉体の中から出てくるのを合理的に訓練するのである。力みから脱出する。ちょっとほめると、それを力みまねる。ボートでいえば、水を漕ぐのを忘れて、コーチャーの前でポーズでミーティングをやっている。これを𠮟りつけて、ただひたすらに水に身をゆだねまかすことでオールのコツを覚えるのである。ここで初めて、訓練の中で大いなるもの、自然なるものにまかすことが、ほんとうの合理的なものに到達することがわかってくる。浄土教で「他力」といい、如来にまかすというが、ちょっとやそっとでの訓練でここには、いたれないのである。55同前 p.36
ここでいう「他力」とは、前述したクロールの例のようにまず身体を動かし、練習を行った末に出会う感覚である。そこに至るには訓練は必要だが、「覚えたり、意識してやった」のではいけない。「自然なるものにまかす」べきであり「力み」、つまり自力があってはならないのである。
水泳の例では「ひとつの法則、形式、フォーム、型」と言われ、この部分では「間」が取り上げられているが、これらはいずれも人間が技術的な活動をする中で、もっとも適切な行動をする状態を述べている。能演舞の際、ここぞという時に鼓を打つことも、水中で全身を動かし進むことも、ボートのオールを漕ぐことも、もっとも適切な瞬間にもっとも理にかなった動きをするためには、練習、訓練を重ねて自分の努力や意識を脱したところまで至らねばならない。自力を脱した末に何ものかに出逢い、その何ものかに委ね任せてこそフォームが分かり、間が分かり、そして美感に出逢う。その何ものかを中井は「他力」、そして「如来にまかす」と捉えているのである。さらに中井は、熱弁するようにこうたたみかける。
この訓練と行動を尊ぶこころは、実は大きな現実への信頼があってはじめてできることである。現実の中に「論理的なもの」「正しいもの」が必ずひそんでいることを、信頼しきっている証拠なのである。
これは大変なことなのである。自分の肉体を信じ、この世界を信じ、歴史を信じ、人類全体を信ずることなのである。
歴史を信ずるというか、人類の歴史をよくしなければならないことに、全身を賭ける魂、その清らかな魂、強い魂の、果敢な態度が、その底に大きく深く横たわっている。仏教でいう、「大乗」というか、大いなるものに乗り切って、安んずるというものが、東洋の伝統の中に生きている。66同前 p.37
「大きな現実への信頼」を掲げ、それを「大乗」と捉えるこの部分は、スポーツや芸術活動における訓練の重要性を説きながら、もはや宗教的な生き方について述べているようである。「自分の肉体を信じ、この世界を信じ」という一節に「阿弥陀を信じ」と書き加えても、決して不自然ではないだろう。
ここで中井がいう「他力」とは、もちろん、法然や親鸞が説いたようなすべての衆生を浄土へと救おうとする阿弥陀の本願力ではない。本来の意味を考えれば、スポーツの身体感覚について「他力」というのはおかしなことであろう。しかし、明治以降の近代化した仏教において、阿弥陀の力は社会全体にも人間の行動にも及ぶものと解釈されている。ここで中井がスポーツの身体感覚と他力を結び付けるのもその一例であり、近代の知識人としての信仰心が表れていると言えよう。




