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宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
中外日報社「宗教文化講座」
第22回「涙骨賞」受賞論文 本賞

スポーツと他力

― 中井正一『美学入門』にみる仏教の受容と修行の在り方 ―

大嶋利佳氏

これは、宗教者として優れた存在であることを「努力なしに」にかなえようとする、いわば「他力」を志向するものとも捉えられ、興味深い例話である。ベルグソンもまた、中井同様に、スポーツ体験を通じて信仰の在り方を考えたのだ。このことは、スポーツには洋の東西や時代を問わずある種の宗教的な体験、感覚を人に与える要素があり、思索の基盤となり得るという証左になるだろう。

哲学者でなくとも、自分の身体を訓練し動かす中で、自分の努力をこえたものがあるように感じることは、スポーツに取り組む人々の多くが経験するのではないだろうか。実際、私たちは、相撲放送や野球のインタビューなどで、力士や選手が見事な技を披露したのに、本人は「夢中で覚えていない」とか「自然に身体が動いた」などと言うのをしばしば聞く。部活動でスポーツに励む青少年でも、競技中の大事な瞬間に、自分がしたとは思えないような素晴らしい技が出たという経験をすることがある。それは、何かがそうさせてくれたようでもあり、自分では思ってもみなかった新しい自分に出逢った瞬間であるとも言えよう。

そして中井が語ったように、時にこの何かに任せたような感覚を味わいながら、繰り返し訓練することで、フォームが身に付き、コツが分かり、合理的な動きができるようになる。これもまた多くのスポーツ実践者が、体験的に知っていることであろう。スポーツには、このように何か自分以外の力が生じていると感じさせる瞬間があるのだ。中井もベルグソンも、ひとりの活発な青年として素朴にこうしたスポーツ感覚を味わい、愉しんでいたであろう。繰り返しの練習の中で感得できる特別な瞬間は、意外に身近に多くの人々に開かれているもののようである。

疾走する瞬間と思索

スポーツ感覚とは、疾走感とも言い換えられるかもしれない。ベルグソンの乗馬も、中井が例にあげる漕艇や水泳、競走なども、風を切ってぐんぐんと前に突き進むものである。走る、跳ぶ、追いつき追い越すといった行動は、私たちにその刻々の瞬間をいっそう意識させる。日常にはない集中、高揚を感じさせ、そして時には何ものかに身を委ね切った感覚を与える。これは、中井にとってはまさに生きることそのものであり、時計では計測できない時間を実感させるものであった。

中井は、『美学入門』の中で西欧哲学の時間論についても言及する。第2部の「4 時間論の中に解体された感情」の項目「二つの時間」においては、ハイデッガーとベルグソンの時間論に触れ、時計の針で刻まれる時間とは別に、人間に実感される時間があることを述べている。2929『全集3』p.106それはハイデッガーでは「『本質的時間』(本当に生きているといえるような時間、すばらしい永遠の時間のことである)」とされ、ベルグソンでは「真実の時間」であり「生きた純粋に持続している、生命の飛躍(エランヴィタル)の時間のことである」と述べられている。中井は、ここではそうした時間論を詳細に検討して論じてはいないが、「芸術とは、かかる時間の中に生きようとする動きとも考えられてくるのである」として、東洋の美について示唆を与えるものであるとも述べている。3030同前 p.109

こうした、生を実感させる時間と言う点で、中井にとってはスポーツと芸術が共通点を持っているのであろう。その瞬間を誰もがじかに感じることができる行動がスポーツであり、それを表現するものが芸術であると考えているようである。この疾走する瞬間を仏教美術や説話に見出し、新たな世界を拓くものとしている記述がある。「5 射影としての意識」の中で中井は、意識の構造を三つに分類し、そのひとつである「基礎射影」について「時間から解放された瞬間に、新しい人間を創造するという『認識の達しない深みにおいて自分自身にめぐりあう』という世界」を指すと述べている。3131同前 p.114そして、それはまた「自分たちの意識の底に、一つの鍛錬を貫いて、あらゆる世界の現象を残るくまなく正しく見つめている明らかな瞳」が生まれると信じることであり、「大いなる自分に自分自身をゆだねることである」として、次のように続ける。

自分自身にあえて安心するという、この大いなる冒険を、東洋では「大乗」といって、断崖に手を撤って、身を投ずるような行動と考えているのである。中国の山東の農民である善導のたとえ、火の河と、水の河の中に、あえて足を踏み出すと、僅かではあるが、四五寸の幅の、「白い道」が展けてゆくといういわゆる「二河譬」のような、戦慄をともなう行動への安心というか、捨身の爽やかさというようなものが、この世界との交渉の秘密をものがたっている。3232同前 pp.114-115

「断崖に手を撤って、身を投ずるような行動」とは、法隆寺所蔵の国宝「玉虫厨子」に描かれた捨身飼虎図をイメージしている。捨身飼虎図は、菩薩の修行をしている修道者が自分の身を投げて飢えた虎に与える場面で、中井はそれについて『日本の美』(1952)の中で「まさに断崖に手を撤って、中空に身をおどらせている姿」3333『全集2』p.253が描かれていると、『美学入門』に通じる説明をしている。そしてその行為によって、菩薩は「初めて、新しい自分の命にむかって飛び込み、よみがえるのであります」3434同前 p.254と述べている。

また、二河の譬喩とは、仏に導かれた衆生が両側から激しい火と水に迫られる中、細く白い道を通って浄土に至る様子を述べたもので、火と水は人々が持つ愛憎や執着を、白い道は仏の本願力を表している。中井にとって、善導3535善導(613-681)法然、親鸞に影響を与えた中国の僧。引用文中で中井が「農民」と書いているのは、善導の実践者としての面を強調するためと考えられる。のこの比喩も、仏教の教義を伝えるばかりでなく、思い切って危機に飛び込む瞬間を経て、新たな自分になる姿を示すものでもあった。

このような記述に、スポーツと仏教信仰の融合を見出すことができる。『美学入門』で中井がスポーツ感覚を「他力」、「大乗」と捉えるとき、それは厳しい人生経験によって深められた思索と信仰が、青年時にスポーツから得た身体感覚と深いところでつながり、西欧哲学とも響き合いつつ、浮かび上がってきた言葉なのである。それはちょうど、地下水脈の流れが合わさり、勢いを増して地表に湧き出てくるようなものであろう。スポーツと美感、そして仏教の他力は、ここにおいてそれぞれが無関係なものではなく、中井独自の思索を形成し、本当の自分の在り方、美と芸術作品の在り方、そして人間が目指すべき生き方を指し示しているのである。

「墨跡付き仏像カレンダー」の製造販売は2025年版をもって終了いたしました。
長らくご愛顧を賜りありがとうございました。(2025.10.1)
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