スポーツと他力
― 中井正一『美学入門』にみる仏教の受容と修行の在り方 ―
Ⅳ 中井が入門へと誘う美学とは
『美学入門』は、一見すると初学者向けの概説書のようなタイトルである。しかし、そう思って手にすれば、読者は戸惑うだろう。確かにそこには西欧哲学の歴史が述べられ、現代にいたるまでの美学の課題が語られている。しかし、その中では時に思いつくままに書いたかのように多くの芸術家の名や作品が列挙され、奴隷制や封建制といった社会制度についても論が展開し、ツェッペリンの飛行船や映画も登場する。そこに中井の思い出も挟み込まれる。これらが「美学」だと言われれば、読者は困惑せざるを得ないだろう。
では読者は、この著作によっていかなる美学に入門するのであろうか。言い換えれば、中井は何を「美」として読者に提示しているのだろうか。『美学入門』を読むと、中井の言う美とは、一貫して「新たにすること」をその中心としている。中井は、「美は常に、無限に変わりつつあるといえる。しかも、それは新しい人間像を、新しい人間像を、と追い求めているともいえる。」3636『全集3』p.47と述べている。
同書で取り上げられる芸術の歴史や作品も、多くがこの観点から語られる。芭蕉や狩野永徳などもその例である。また万葉の「さやけさ」や藤原朝の「わび」、町人文化の「いき」など、様々な時代に見いだされる美のすがたにも共通するものがあり、それは「無理なもの、無駄な力んだもの、醜い重いものを、本当のものからさらさらとほうり落として、自然さながらなるもの、鍛錬を貫いての裸のものになってゆくことの美しさにおいて皆一つなのである」3737同前 pp.47-48と言われる。
そして、中井にとって美とは、自然や芸術の中だけではなく人間が生きようとする活動のすべてに見出せるものでもあった。「技術の中に」の項目に次の一節がある。
例えばこの大東京の一角に立って見て、見えるかぎりの家、バラック、その中にうごめいているどんな人間の、ぼろぼろの着物だって、持ち物だって、電車だって、自動車だって、長い長い二十万年の人間の歴史が創り上げたものでないものは、一つもないのである。たとえ、どんな謬りを、たがいに犯していても、みな、この謬りをふみしめて、耐えに耐えて、さらに創りあげ、創造しようとしている技術でないものはないのである。3838同前 pp.9-10
続けて中井は、「このすべてのくだらないものの中に、美がどうして発見されるのであろう」と問う。終戦後、国土の大部分が焼失し人々が困窮の中にあり、自身もまた絶望的な出来事を経験しながらも、なおそこに創造する技術があり美が発見されるのだと言う中井の姿勢は、単に前向きとか楽観的という言葉で評せられるものではない。これは、信仰があればこその現実の肯定であろう。
そして、そのくだらないものの中にある美とは、人が「ちょうど、クロールのフォームを発見した時のように」3939同前 p.10、生きる上での法則を探り当てた証拠なのである。中井は、水の中で溺れ苦しみながら練習を重ねてやがて泳げるようになる姿を、人間が歴史の中で様々な法則と技術を発見し、発展してゆく姿に重ね合わせている。それは、愚劣な行為を繰り返していたとしても「謬りをふみしめて、耐えに耐えて」進んでゆく人間の在り方である。そうして獲得された技術の上に、芸術の世界もまた展開してゆくのだ。
『美学入門』は、確かに西欧の美学と芸術史の概略を伝えている。しかし、それ以上にこの著作は、読者に対して古いものをふり捨て、古い自分を追い抜く一歩を踏み出してこそ美があるのだと訴えている。『美学入門』は、学問分野への入門であるとともに戦後の日本人が目指すべき、新たな時代の美への導きだと言えよう。




