スポーツと他力
― 中井正一『美学入門』にみる仏教の受容と修行の在り方 ―
そうした過酷な内容の中でも、中井に特に強い印象を残したのは、権力者に正しい政治をするよう進言する諫官の存在である。これについて、戦後「京都大学新聞」に書かれた文章があるので、一部を引く。
(諫官は)白い玉の階に覚悟の冠を置いて「どうぞ黄河の治水をして、あの酒池肉林を止めてください」と主上に申上げる。この申上げる務め、諫官が彼の任務なのである。「主上怒而裂之」「主上怒而焚之」てな具合に腰斬にいたるまで七つか八つかの殺し方で殺してしまう。殺されることがわかっていて、次から次に六、七十人も発言しては殺され、殺されては発言する、それが中国の歴史なのである。私は途中で二ヵ月ばかり巻を閉じて読むのをやめた。肉体的に痛くなったからである。自分が二年くらいの判決でビクつきながら自由を求めているのに、このインテリたちは、黙っていれば最高の官職で帝王の近側にいられるものを、一言ずついって何の効果もないことがわかっていて、なおも死んでゆくのである。1616『全集4』pp.115-116 「組織への再編成 ―『資治通鑑』の諫官の祈り」(「京都大学新聞」1950年9月25日号)カッコ内は筆者が補った。
これに続けて中井は、「このことを思うとき私は涙が出て出てたまらなかった。私達の及びがたきこのインテリどもが『資治通鑑』の中に数かぎりなく自分をにらんでいるようだった」と痛切な心情を吐露している。中井は、逮捕拘留中には官憲の意に従う文章を書かされ執行猶予を受けて釈放されている。その後も、監視下において問題とならないよう国策に添う著述をするしかなかった。それだけに、命を捨てて正論を告げる諫官の行動に、涙が止まらなくなるほど感情を揺さぶられるのであろう。
愛児の死1717中井の次男、尭。1940年9月に病死した。も、中井の心身に大きな痛手を与えた。それは親としての悲しみだけではなく、中井にとっては己の信仰の在り方を厳しく見つめる契機ともなった。一般にあまり知られていないこの出来事について、広島県竹原市にある市立竹原書院図書館に収蔵されている郷土史資料に拠りつつ述べてゆきたい。1818「中井正一研究会会報準備号」に拠る。地元研究家の研究会会報で2000年から定期的に刊行され活動報告や会員の論文の他、中井が残した文章を資料として掲載している。
先にも触れたように、中井の両親は篤信家であり、寺院での説法や談話会に参加したり中井家に僧侶が訪れたりすることがしばしばあった。そうした中で、中井は10代の頃に足利浄円1919足利浄円(1878~1960) 浄土真宗本願寺派の僧侶。福山市出身。1918年、同朋舎を創設して印刷、出版事業を始める。1924年、雑誌『同朋』を創刊。と知り合っている。人生問題に悩んだ学生時代の中井にとって足利は宗教上の師と言える存在であり、その後も交流が続いた。中井は、愛児が死亡した後、足利宛の手紙形式の文章を、足利が主宰する宗教雑誌『同朋』に寄稿している。中井はその中で「私は、私の心の底の底に現世祈りの姿勢が寂かにかくれていたのを知りました」と告白している。「現世祈り」とは、この世での利益を求めて念仏することで、浄土真宗では迷いとして否定される行為である。中井は、教義に反する願いを抱かずにいられない自分に困惑しつつ「仏よこの子の命を救ひませ」と祈り続けた。それに続く部分を引用する。
しかし、現実は冷酷でした。歯車がしづかにめぐるごとく、死は死でした。
あれほど願った願が一片の迷となり、それが只迷であることを知つた時、広漠たる空間が身を包む思ひがいたしました。私はほんたうの現に在る自分を見るの思ひがいたしました。仏様は、これが真の現実であるぞと云ひつづけてゐられたのでありました。巍々として聳ゆる真実には、冷厳骨髄に透るものがあります。
「願」とは、かかるどうしようもない限界の断崖に立って、はじめて身にしみ給ふ思ひがいたします。
思惟の仏、それはこの限界の空間の前に、その空虚の広さの前に、その底をはかるゝみ姿ではありますまいか。頬に手をあてゝうつむかるゝ弥陀仏のみ足の下には、こんな空間が拡がってゐるのではありますまいか2020中井正一「ともし火」(『同朋』第117号1940年1月掲載)「中井正一研究会会報準備号」第88号(2009年1月15日)に【資料】として掲載された。。
「巍々として聳ゆる真実」とは、『美学入門』に書かれた「この現実が巨大というか『現実とはそんなものだったのか』そうだったのかと、自分の前にそそりたった」という表現、また「現代日本画の一つの課題」にある「絶壁の如き粗々しい現実」という表現に通じる。ここで中井に立ちはだかる現実とは、我が子を生かせと仏に祈らずにはいられない我欲であり、どのように願おうとも避けられない死である。そしてそのありさまを「思惟の仏」、つまり菩薩は頬に手をあてうつむき見ているのである。中井はこの時、絶望とともに、動かし難い現実がありながら、それでも仏が「全ての衆生を救う」と誓った「願」の重さ、沈痛さに深く思い至ったのではないだろうか。そしてこのことは、中井の宗教観と芸術観に大きな影響を与えたであろう。
『同朋』掲載の文章は、日頃から交流のある僧侶や信者の間で読まれるものであるだけに、中井の心情もより率直に綴られていると思われる。入手しにくい資料であるが、中井の信仰心と思索の深まりを理解する上で、見落とすことのできないものであろう。




