スポーツと他力
― 中井正一『美学入門』にみる仏教の受容と修行の在り方 ―
この一節は、中井自身が第二の誕生を経験したという告白と読み取れよう。これに通じる記述が「橋頭堡」(1944)の中にも見られる。中井の人生を凝縮したような文章なので、合わせて引用する。
人生には二つの誕生があるかのようである。
はじめは、自然と人生の美しさに目を瞠るとき、一つの魂の誕生がある。そしてその悦楽を追うための技術もまた、一つの悦楽であるかのように思われることもある。
しかし、人生の幾山河は、第二の誕生を用意している。
それは、自分をも含めて、人間の愚劣に驚嘆するときである。この自分が愚劣であることへの驚嘆は、しかし、目が眩むような光に自分が射すくめられた証拠でもある。2525『全集4』p.89
技術も悦楽であるという記述は、本稿の始めに引いた水泳や漕艇の例を思い起こさせる。スポーツで身体を動かす技術の中に「うつくしいこころもち」という悦楽を味わったところに、中井の第一の誕生がある。そして「人生の幾山河」を越えた第二の誕生の際には、「目が眩むような光に射すくめられた」のである。この光が親鸞の『教行信証』にも説かれる仏陀の無量光を意味することは、中井の信仰への真摯な向き合い方から考えれば明白であろう。ここには、絶望の果てに得た信仰心がはっきりと表明されている。
こうした第二の誕生を経て青年時のスポーツ経験を振り返ったとき、30代のスポーツ論に書かれた爽やかな「微笑」も、また違ったものとなった。中井の思索の深まりは、この微笑という言葉においても辿ることができるように思われる。
中井は『美学入門』において、官憲から拷問を受けた時、「中宮寺の観音のような、古代の彫刻によく彫られているほほえみが、自分の眼の前を横切ったように思った」と書いている。中国の大衆が巨大な仏像を岩壁に刻むのも、「この巨大な愚劣に、ほほえみ、生き耐える」ためである。先にあげた足利への手紙の中にも、中宮寺の菩薩像が思い浮かべられている。仏の微笑は、一般には優しく穏やかな慈悲の表情として受け取られるものであるが、中井にとっては絶望の果てに行きついた感情の表出なのである。中井は、青年時代ボートを漕ぐ忍苦の中で感じた「微笑」を心に保ちつつ、それをいっそう重く痛ましいものへと深めていったことが数々の記述から窺われる。
このように、第二の誕生を経た中井にとっては、青年時にスポーツで得られた感覚もまた阿弥陀の光に照らされた経験であり、他力との出会いと捉えられたのだ。スポーツに他力を見出す感性は、人生の過酷な体験と独自の修行を経て養われたものだと言えよう。
Ⅲ スポーツの神秘的感覚
中井の信仰心の深まりが、スポーツの中に他力を捉えたと述べてきたが、ここでスポーツそのものがなにか自分を超えたものの力や宗教的な感覚を与える活動であるという点も、合わせて指摘しておきたい。走る、泳ぐ、跳ぶなど非日常的な激しい動きをする際には、私たちの知覚や意識もまた非日常的な状態に直面する。そして、それがある特別な、神秘的、宗教的な感覚に出会う瞬間となることもある。
その一例として、ここでフランスの哲学者、ベルグソン2626アンリ-ルイ・ベルグソン(Henri-Louis Bergson 1859~1941年)の言葉をあげることができるだろう。ベルグソンは青年期に乗馬を愛好しており、ある時、意識的な努力を手放して馬に乗ろうと試みた。そしてそこで得た感覚、経験について次のように語っている。
それまで努力しておこなっていたことを努力しないでしようと決心した。緊張状態からゆるりとした無理のない信頼の状態に移ったとき、結果はずっとよくなった。だが、この状態は分析がまことにむずかしい。その状態にあって、問題を心にとどめながら、検討する必要がある。いずれにもせよ、この場合、勇気が問題なのではないことは、よく分かっていた。というのは、危険は少しもなかったのだから。だれの手、なにものの手だか知らないが、身をまかせきる信頼だったのだろう。神の、とはあえて言わないが、乗馬の精神の、とでもしよう。柔軟さやゆとり、さらにその上のなにものかをわたしに許すことになった一連のすべての努力に、ほとんど瞬間的に匹敵する絶対的な信頼だ。2727シュヴァリエ『ベルクソンとの対話』、仲沢紀雄訳、みすず書房、1969年、p.330
この試みの体験談は、ベルグソンがフーシェ師という僧について語る中で述べられている。2828同前 p.329ベルグソンは、フーシェ師について「聖者となるために、いかなる努力も必要としていないように見えた」と評し、「努力なくして優越さを獲得した人々」があり、そうした人々は「一般の努力とはまったく質の違う努力をしたのだ」と考える。ベルグソンはその努力を「一見簡単な決心と見えるようなものだ」とし、それを乗馬の体験に重ねているのである。




