PR
購読試読
中外日報社ロゴ 中外日報社ロゴ
宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
中外日報社「宗教文化講座」
第22回「涙骨賞」受賞論文 本賞

スポーツと他力

― 中井正一『美学入門』にみる仏教の受容と修行の在り方 ―

大嶋利佳氏

スポーツ論に見る「他力」の萌芽

中井は、青年時からスポーツに親しみ20代で京都帝国大学の漕艇部で活動し、30代ではスポーツそのものを主題とする哲学論考を書いた。それらには、『美学入門』へと発展する萌芽と考えられる記述が多数みられる。ここで「スポーツの美的要素」(1930)、「スポーツ気分の構造」(1933)の二作から、スポーツについての記述がある部分に注目して読んでみたい。

「スポーツの美的要素」は、スポーツを遊戯論から説き起こし、そこに「競争性の快感」と「筋肉操作の美感」を見出す論である。中井はこの中で、スポーツの筋肉操作に「生きることを感ずる」快さを認めるが、それは「疲労」、「忍苦」を経験することでさらに深まると説く。その部分で、漕艇の例が出される。

引きゆがめられた微笑をもってそれ(「行為」とその「忍苦」)を親しく甞めるスポーツの内奥の愉悦は、その密かな喘ぎ、喘ぎ、喘ぎの喜悦である。

一本一本のオールを流さないこと、誤魔化さないこと、それはむしろ、いわるべき言葉ではなくして筋肉によって味覚さるべきものである。疲れ切った腕がなおも一本一本引き切ってゆくその重き愉悦は、人生の深き諦視の底の澄透れる無心にも似る。

その無心性は、よき練習と行き届いた技術の「冴え」をもたらすものである。77『全集1』p.418 カッコ内は筆者が補った。

そして中井はこの「無心」が、「あるべき則にはまってゆく心よさ」「コツ」「気合の冴え」を生み、成熟してゆくことを「練習のもつ深い意味」であるとし、次のように続ける。

すなわち「忍苦」はもはやその放棄しかあり得ない極みにおいて、何物かに身を依する。その対象は、スポーツにおいてはフォームと呼ばるるところのものである。88同前 p.419

この3年後に書かれる「スポーツ気分の構造」は、ハイデガーの概念を踏まえ、スポーツの「空間性」と「共同存在的性格」、そして「肉体的技術的性格」について検討するものである。そこには、「スポーツの美的要素」に書かれたものとほとんど同じ文章が所々に見いだされる。しかし、その中のわずかに異なる表現に中井の思索の深まりが感じられる。その例と言える部分を以下に示す。

疲切った腕が尚も一本一本のオールを引切って行くその重い気分は、人生の深い諦視と決意の底に澄透れる微笑にも似る。この微笑気分はよき練習と行きとどいた技術の訓練に於いては特殊の「冴え」をもたらすものである。

(…)

耐えることは最早放棄しか有得ない極みに於いて、何物かに身を委ねる。それはフォームといわんにはあまりにも流動的である。成長するモルフェの瞬間的な把捉であり、時そのものの特殊な実存的深化である99同前 pp.402-403

こうしてふたつの論考の類似した部分を比較してみると、どちらも「微笑」をもって苦しみと疲れに耐え、その果てに「何物かに身を依する」、あるいは「委ねる」ことを重要な経験として繰り返し書いている。また、始めは「フォームとよばるるところのもの」であった「何物か」が、3年後には「流動的」「成長するモルフェ」と表現されている。こうした捉え方の変化が、その後約20年を経て書かれた『美学入門』において「他力といい、如来に任すというが」という表現へと発展すると考えられるだろう。

これらの文章を見ると、青年時代、苦しい練習によってフォームを習得したスポーツ経験は、中井にとって極めて印象深く思索の基盤となったことが分かる。30代の中井はそこに人間存在の一面を感じ、西欧の実存哲学の語彙を用いてそれを捉えようとした。それが40代以降は、仏教的な面が強く打ち出された表現となる。それは中井が西欧哲学から仏教に転じたというより、30代の著作に微かに芽生えていたものが、後に大きく展開したように見える。そこで、中井の思索が展開した時代の状況と人生の出来事を見てゆきたい。

「墨跡付き仏像カレンダー」の製造販売は2025年版をもって終了いたしました。
長らくご愛顧を賜りありがとうございました。(2025.10.1)
中外日報社Twitter 中外日報社Facebook
このエントリーをはてなブックマークに追加