黎明の京都学派
- その哲学的発足点の探究 -
問題の所在 京都学派は〈仏教的な哲学の学派〉か?
近年、「世界哲学(world philosophies)」という枠組みの下、日本哲学に新たな角度から光が当たっている。日本語の「日本哲学」は通常、明治以降に西洋哲学と日本思想の出会いを経て生まれたものを指し、西周(1829-97)をその始点と見なす。この特徴から、日本哲学が日本哲学としてその日本性を提示することが求められる場合、これが西洋思想と非西洋思想との出会いによって生まれたものであること、したがって〈西洋思想とは異なる事柄を語るもの〉であることが自ずから期待されることになる。その結果、欧米の研究者だけでなく国内の研究者もが日本哲学を過剰にオリエンタライズしがちである。そして、日本哲学の中でも特に東洋思想として、さらに言えば〈仏教的な哲学〉として理解される傾向があるのが京都学派である。だが、京都学派にとって東洋思想は不可欠の契機だったのだろうか?─本稿は、この問いから出発して〈京都学派とは何か〉を再考することを目指すものである。
京都学派を東洋思想として提示することは、国際的受容の観点から見れば功を奏したと言える。というのは、アメリカの京都学派研究の第一人者マラルド(John Maraldo, 1942- )が「京都学派は日本の知的歴史の中で重要な位置を占めるものとして認識されているため、二十世紀哲学の他の潮流から切り出され、特別な扱いを受けてきた」(Heisig et al. 2011: 639)と言うに至るまでには、1960年代初頭に西田幾多郎(1870-1945)の『善の研究』が和辻哲郎(1889-1960)の『風土』と共に英訳された時以来、その〈西欧哲学の語彙を用いる東洋の思想〉という特徴が有利に働いてきたことは間違いないからである。
東洋的な側面を強調して京都学派を理解する筆頭は、現在の国内外での京都学派研究の権威である大橋良介(1944- )である。大橋は現在でも京都学派を「仏教的な「無」あるいは「空」の思想を一つの源泉としつつ、西洋哲学の土俵で思索を展開した哲学者たちの輪」(大橋2025: 6)と提示し、仏教的な無・空の思想を京都学派の不可欠な要素としている。大橋は西田の仏教的な側面を空の宗教哲学へと発展させた者として西谷啓治(1900-90)、さらに西田・西谷の宗教哲学を継承した者として上田閑照(1926-2019)を挙げている(Ohashi 2014: 38-40, 43)。実際に西田・西谷・上田は特に海外の京都学派研究で中心となっているため11Springerの日本哲学の論文集シリーズ、Tetsugaku Companions to Japanese Philosophy は京都学派では西田と上田の巻が2022年に最初に出版され、その後に京都学派に関するものはまだない。西谷については、Journal of East Asian Philosophy で2024年に西谷特集が組まれている。これらが海外研究者の関心の方向性を示している。、大橋が示す種類の京都学派像は確かに成功を収めており、研究史上の大きな功績である。
しかし、京都学派という括りの提唱者の意図は〈仏教的な無の思想〉と無関係であった。哲学の京都学派は、よく知られるように戸坂潤(1900-45)が1932年に初めて用いた語である。この時に戸坂は、京都学派を端的に「西田=田辺の哲学」(戸坂1966b: 176)と要約している。京都学派を「西田=田辺」と形容することで戸坂が表現を試みたのは、京都学派は田辺元(1885-1962)が西田哲学を継承したことで初めて成立したということである。そして、戸坂自身は、西田哲学を「東洋的なもの」と理解したり「禅に結びつける」仕方で解釈しようとする者に対し、それは不十分な試みだと批判している(戸坂1966a: 341-2)。すなわち、戸坂が京都学派を提唱した際の基準として重要なのは、後で詳しく見るように、西田哲学を何らかの形で継承したことそれ自体であり、さらに戸坂にとって「西田哲学」は東洋の宗教思想に基づく哲学ではなかった。したがって、京都学派の語の提唱時には〈仏教的な無の思想〉の含意はなかったのである。
もちろん、この戸坂の定義は1930年代初頭に提示されたものであり、西田と田辺が1930年代後半からは全面的に対立したことや、両者が共に晩年には自身の哲学の東洋性を強調したことは勘案されていない。何より、京都学派を〈仏教的な哲学の学派〉として示すことはそのインパクトで言えば国内外で成功を収めており、何ら不都合はないように思われる。だが、本稿はこの状況に二つの問題があると考える。
ひとつは、〈京都学派とは何か〉を巡る問題である。大橋は京都学派をひとつの哲学の学派たらしめる思想的要因を「仏教的な「無」あるいは「空」の思想を一つの源泉」(大橋2025:6)とすることに見出した。だが、田辺を京都学派のひとりとして扱おうとする限り、この見解は妥当ではない。大橋が〈仏教的な無の思想〉と呼ぶものは「仏教に代表される極東の思考」(Ohashi 2014: 25)であり、具体的には「無と有が決して互いに分けられることなく、むしろ同一である(dasselbe)」(ibid.: 27)と捉える立場を指す。これは確かに西田の絶対無や西谷の空には適合する22西田は絶対無を「絶対に無なると共に絶対に有なるもの」(N5:451)とし、西谷は空を「有と自己同一をなすもの」(西谷1987:109)と言う。。だが、田辺はこの見解を「死せる無」(T6:182)として正面から否定しているため、田辺はこの括りの中に入れることは出来ない。田辺の絶対無はカント・ヘーゲルの解釈を通して彫琢された概念であり、彫琢の過程に仏教的な概念は介在していない33田辺は絶対無を彫琢する過程を、カントの「反省判断の普遍〔…〕がヘーゲルの研究に由って、絶対無としての普遍と解せられるようになった」(T3:79)と表現している。すなわちその過程は1910年代の田辺における絶対者が、『カントの目的論』(1924)で「反省判断の普遍」と具体化され、これがさらに『ヘーゲル哲学と弁証法』でヘーゲルの絶対精神および『論理学』における有と無の解釈を経て絶対無となった、というものである。田辺が絶対無を彫琢する過程については浦井(2024:34-55)および浦井(2025)も参照されたい。。この意味でも田辺哲学を〈仏教的な無の思想〉に依拠すると見なすことは難しい。したがって、田辺をその中に含めようとする限り、京都学派を〈仏教的な無の思想を源泉とする学派〉と表現することは適切とは言い難い。



