黎明の京都学派
- その哲学的発足点の探究 -
四 1910年代の田辺元による西田の純粋経験論の発展的継承
田辺が西田の〈純粋経験の自発自展〉に魅了されたことは、1910年代に「直観1414純粋経験と直観の関係については注8を参照。の自発自展」(T2:138)のような形で自発自展を用いたり、「実在が不息の進展なる」(T1:139)のように西田が純粋経験に与えた諸種の規定を随所で用いていることから分かる。では、田辺はこれをどのように有効に使用したのだろうか。
それは西田の「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」(N1:4)という言葉を西田以上に真剣に受け止め、〈純粋経験の自発自展〉によって文字通りすべてを説明しようとしたことである。というのは、二節で田辺が1918年の『科学概論』で哲学体系の構築を企図したことを見たが、まさにその体系のすべてを西田の純粋経験によって説明することを試みたのである。その点で、戸坂は田辺の『数理哲学研究』を西田哲学の有効な使用と理解したが、実際には田辺は数理哲学を含めたすべての哲学分野を純粋経験の自発自展によって説明しようとしていたと言える。このことが可能なのは、前節で見たように、西田の純粋経験がすべての学問的知識をその自発自展によって説明しようとするものだからである。
以下では1910年代の田辺による西田の純粋経験論の使用を概観することになるが、次の4つに分けて田辺が論じた順番で見ていきたい。すなわち、(1)新カント派の認識論、(2)価値論、(3)数理哲学、(4)形而上学の4つである。
1910年代の田辺の議論は、新カント派を主要な論敵とすることによって進んでいく。田辺が特に論敵として頻繁に取り上げるのはコーヘン(Hermann Cohen, 1842-1918)、ナトルプ(Paul Natorp, 1854-1924)、リッケルト(Heinrich Rickert, 1863-1936)の3人である。田辺がこの3人を直接に批判し始めるのは、「認識論における論理主義の限界」(1914)である。この論考で田辺が試みることは、この3人の認識論がすべて西田の純粋経験に基礎づけられて成立するものであると示すこと、つまり西田の純粋経験がこの3人の認識論の共通かつ根底的な要素としてこれを「調和補充し得べきものなる事を示そうとする」(T1:29)ことである。そのために田辺は、3人の認識論の根底的要素の内容が西田の純粋経験であるべきだと論じる。それぞれについて見ていきたい。
田辺はコーヘンとナトルプの認識論の根底的要素を「根源(Ursprung)」に見出す。これはコーヘンが提唱し、ナトルプが「根源的なもの(das Ursprüngliche)」として継承した概念である。コーヘンは根源を「あらゆる思惟の要素は、認識の要素と見なされる限り根源(Ursprung)から生産される」(Cohen 1922: 92)と言う。すなわち、人間が認識し得る思惟の要素すべてがそこから出てくるようなものが、コーヘンの根源である。そのため、田辺はコーヘンの根源を自然科学の知識を生産するものと捉える(T1:34)。その上で田辺は、このように知識を生産する根源、つまり多を生産する一は西田の自発自展する純粋経験であると言う。このことによって可能になるのは、コーヘンが「思惟の中以外のどこにあるというのか」(Cohen 1922: 31)と言うに留める根源を、純粋経験という我々の現実の経験として具体化することである。
リッケルトに対しては、その認識論の根底的要素「意識一般(Bewusstsein überhaupt)」が純粋経験でなければならないと指摘する。意識一般とはリッケルトが認識論における真の認識主観としたものである(Rickert 1904: 26,36)。だが、これは通常の身体を持った主観ではなく、認識作用のみを残す形で極限まで削ぎ落とされた主観である。そのためリッケルトは、意識一般を真の認識主観とするにもかかわらず、「限界概念、つまりある意味において決して到達できない立場」(ibid:145)と位置づける。田辺はこの到達不可能な認識主観を到達出来るものにするために、意識一般を西田の純粋経験として解釈する(T1:51)。つまり、コーヘン・ナトルプの場合と同様に、そこからあらゆる認識が出てくるようなものは、自発自展する純粋経験だと示すのである。
以上が、西田の純粋経験論によって新カント派の認識論を補充するという田辺の試みである。田辺はこの論文を出版後すぐに西田に送ったようで、西田の田辺宛書簡(1914年4月2日付)には長文の感想が述べられている。西田は「小生は御論文は非常に興味を以て読み大体に於て何等異論を挿むべき所がない」(N19:511)と高く評価すると共に、田辺の試みた西田の純粋経験論と新カント派の架橋が「今日認識論の発展し行く途にあらざるかと存じ候」(N19:508)と述べている。ここから、西田と田辺の協同が始まる。




