黎明の京都学派
- その哲学的発足点の探究 -
ここで戸坂は田辺を西田と並ぶ京都学派(西田学派)の共同創設者と位置づけた上で、さらなる後継者の可能性として三木清の名を挙げている。三木については、『歴史哲学』(1932)が、西田が『一般者の自覚的体系』(1930)から頻繁に論じるようになる「歴史的世界」の議論を継承していると見なしたのであろう。そして、戸坂にとって田辺の功績は以下の2点に集約される。
(a)の『数理哲学研究』は、四節で見るように、田辺が西田の純粋経験論を数理哲学に応用した著作である。(b)については、田辺の『ヘーゲル哲学と弁証法』(1932)を西田哲学の発展的継承と見たのであろう。同書は田辺が1927-31年に書いた雑誌論文をまとめた著作であるため、上掲の戸坂の「最近の田辺博士の理論」という記述と一致する上、戸坂自身、同書から「博士の哲学の諸特色を捉えることが出来る」(戸坂1966b: 175)と評しているからである。そして実際に、同書は田辺が初めて自身の「絶対無」の概念を示し、これに基づく弁証法(田辺の「即物弁証法(Sachlichkeitsdialektik)」)の構築するものであるため、田辺なりの仕方で西田の絶対無の哲学を発展させたものと言える。
そして戸坂は、田辺が同書で「田辺哲学を打ち立てた」だけでなく、田辺哲学の構築によって田辺が「西田哲学に厳然たる後継者が控えている」こと、これによって「西田哲学は今や京都学派にまで確実に伝承される」ことを示したと捉える(同上177)。要するに、田辺が『ヘーゲル哲学と弁証法』で西田哲学を発展的に継承して田辺哲学を構築したことを戸坂は「京都学派の成立」(同上)の契機と見なしたのである。
先に戸坂は、「西田哲学を西田学派にまで踏み固めることは、田辺元博士のみ許される尊敬すべき努力」(同上175)と言っていたが、なぜ〈田辺のみ〉に許されたのかと言えば、それは『数理哲学研究』で西田の純粋経験論を継承したことに加え、『ヘーゲル哲学と弁証法』で自身の哲学を構築し、後続に対する模範となったからであろう。つまり、西田哲学の単なる反復ではなく、これを踏まえて自身の哲学体系を構築する者が学派を形成する上では必要であり、その先駆として実現可能性を示したのが田辺だったのである。まさにこのために、戸坂は京都学派の哲学を「西田=田辺の哲学」(同上176)と言い換えたのである。もちろん、「西田=田辺の哲学」と「=」を付けていても、戸坂が田辺哲学と西田哲学を同じものと捉えていなかったことは、「田辺哲学が成立したということは即ち、田辺博士の哲学がもはや所謂西田哲学とは異った別なものになったということ」(戸坂1966a: 340)という言葉から明らかである。
このように戸坂は田辺を西田哲学の発展的継承者の最初のひとりとして見て、京都学派という呼称を使用し始めた。戸坂にとって京都学派に入るか否かは、「西田哲学の解釈者として、或いは西田哲学の感情的な同情者として、或いは西田哲学の修辞的な後継者として」(戸坂1967: 88)思索しているか否かだったようである。戸坂が直接に京都学派に属する者として名を挙げているのは上掲の三木清の他に、山内得立(1890-1982)と植田寿蔵(1886-1973)である(同上)。とはいえ、この〈西田哲学の発展的継承〉という規定に従えば、他の西田・田辺の弟子たちはもちろん、ふたりの死後の哲学者も京都学派に数えることが可能である。
さて、〈黎明の京都学派〉を解明する本稿は、1910年代の田辺による西田の純粋経験論の継承(上述の田辺の功績(a))を扱うことになる。まずは、西田と田辺の哲学的協力関係の形成過程を見ていきたい。
二 西田幾多郎と田辺元の邂逅と協同
1930年頃までの西田と田辺の関係を一言で表現するのは、田辺が1922-24年のヨーロッパ留学中に語ったとされる「西田哲学を論理的に精密にすることが私の分」(石川1963: 3)という言葉である。西田の著作は常に生成の途上にあり、容易な体系的理解を許さない。特に『自覚に於ける直観と反省』(1917)と『働くものから見るものへ』(1927)という前期の重要著作はその傾向が顕著である。1910年代の田辺は、前者の論理的精密化を自身の為すべき仕事として見出していた。この協力関係に至る経緯を見ていきたい。
西田と田辺がどのように知り合ったかは明確ではない。西田の日記・書簡から分かる両者の最初の邂逅は、1913年4月6日に西田が東京帝国大学で講演を行った際の懇親会においてであり、田辺の名が参加者として西田の日記に記されている(N17:313)。この時、西田は京都帝国大学の倫理学講座の助教授、田辺は開成中学の英語教師であった。田辺はその4ヶ月後の1913年8月に東北帝国大学に赴任する。そして、1914年1月から、京都と仙台の間での文通の形で、ふたりの学問的交流が始まる。書簡の内容は、主に西田が田辺に対して哲学に関する指導を施すものだが、西田も田辺に数学について尋ねたりしている66N19:525-6, 533, 547など。実際、西田は田辺の『数理哲学研究』に寄せた序文で「著者の如き特別の素養あるものにしてはじめて此の如き書を成し得る」(N13:195/T2:363)と田辺の数理哲学を高く評価している。。そして田辺は西田が書簡で紹介する文献を読み込むことで1910年代の思索を進めていった77西田が勧めた中でも特に、1790年代のフィヒテの著作、リッケルト「認識論の二途」(1909)、ナトルプ『一般心理学』(1912)は初期田辺で重要な役割を担っている。。このような関係が始まって4年半ほど経った頃、田辺は西田との交流から蒙った恩恵を『科学概論』(1918)の序で説明している。
余が此書に述べた所の哲学上の思想は最も多くを西田幾多郎先生の感化に負う。西洋哲学の諸思想も先生の思想を通して始めて余が其意義を理解し得るようになったものが多い。実に余の哲学に対する心の眼は先生に由って開かれたのであると云ってもよい。加之先生は啻に此の如く其思想を以て余を啓発せられたばかりでなく、常に読書研究の方針等に就いても懇切なる注意を与えて余を指導せられた。余は未熟ながらも余の今日有する所の哲学思想の大半を直接間接に先生に負うものなることを告白しなければならない。(T2:158)




