黎明の京都学派
- その哲学的発足点の探究 -
結
1910年代の田辺は、『善の研究』が示す〈純粋経験からすべてを説明する〉という理念を額面通りに受け止め、西田の自発自展する純粋経験によって文字通りすべての学問を説明することを試みた。この純粋経験の自発自展が、紀平正美が評していたように、1900年代に日本で数多くの論者によって喧しく純粋経験が叫ばれている状況における西田説の意義であり、これこそ田辺が西田哲学に惹かれた理由であった。したがって、京都学派の哲学的発足点は純粋経験の自発自展にあり、〈黎明の京都学派〉は田辺によるこの見解の諸学への応用としての西田・田辺の協力関係であった。
このように見て来れば、京都学派の哲学的発足点は西田・田辺の哲学的探究にあり、この段階では仏教を不可欠の要素と位置づける必要はないと言える。もちろん本稿は、西田が〈『善の研究』は西洋哲学の研究と禅的修行の両方から出来ている〉と弟子の森本省念に対して語ったこと(下村1970: 164)を無視するものではない。西田は特に大学教員になる前の時期に禅に打ち込んだのだから、その経験が思索に影響を与えていることは当然である。だが、本稿が明らかにしたように、田辺が西田から継承した純粋経験の自発自展においては仏教的な要素が表面化していない。そして、田辺はこの見解に当時の西洋哲学が進む先を看取したのであり、その意味で西田の先見の明こそ京都学派が生まれる土壌となったと言えよう。
もちろん、それは西田が意図的に西洋哲学を先回りしようとしていたということではない。確かに西田は最新の西洋哲学文献にいち早く目を通し、それらの多くに言及している。だが、西田自身が晩年に「私には或人の書物を丹念に読み、その人の考を丹念に研究しようという考が薄い」(N12:228)と言う通り、西田は─戦後に田中美知太郎(1902-1985)が非難するように─通常の文献研究とはかけ離れた態度で思索を進めた。自身の思索態度を西田が鉱夫に喩えたのはよく知られているが(N13:221)、筆者が受ける印象は刀鍛冶である。西田にとって肝心なのは自分の思索を鍛え上げることであり、最新の西洋哲学文献はそれを打つための折々の道具に過ぎない。そのことは西田の引用対象の変遷から明らかである。特に「場所の論理」の体系化がひとまず終わる1930年頃までの西田は、それらを自分が本当に言いたいことを表現する媒体を探すために使っている向きがある。
このような思索態度は田辺宛の初期の書簡(1914年4月2日付)にも現れており、西田は田辺に「哲学は何処までも深く深く詳しく詳しく真摯に自己の問題を解決せねばならぬ」(N19:511)と指南している。田辺は西田と真逆で〈或人の書物を丹念に読む〉仕方で思索を進めているし、初期には西田と違って意図的に西洋哲学を先回りしようとしていた印象は否めない。だが、特に『カントの目的論』(1924)以降は西田の指南〈自己の問題の追求〉を実行しているように思える。田辺にとってそれは何よりも道徳の問題であり、社会の改善であったことは「種の論理」(1934-41)提唱以降の田辺哲学の進展から明らかである 1616詳しくは浦井(2024)を参照されたい。。。
その意味で、「場所の論理」と「種の論理」という京都学派を代表する理論は初期以来の西田・田辺の〈自己の問題の追求〉という営為の結果だったと言える。すなわち、冒頭でも引いたマラルドの「日本の知的歴史の中で重要な位置を占めるもの」(Heisig et al. 2011: 639)という国際的な評価を得た京都学派は、〈日本的なもの〉を持っているが故に意義があったのではなく、西田・田辺の真摯な〈自己の問題の追求〉の結果として西洋哲学とは異なる可能性を切り拓いた故に意義があったと言える。
現代では即座に「役に立つ」ことが求められ、その中で思想研究も分かりやすい意義を素早く提示することが必要とされがちである。だが、京都学派が現代の思想研究に資することがあるのならば、それはその遺産の中に日本固有の何かを見出すことではなく、彼らの〈自己の問題の追求〉が100年近く経っても扱われ続ける思想として結晶化したという事実であろう。私たちが彼らの思索態度に学ぶことによって、西洋哲学(西欧哲学)の対照項としてその客観精神の運動に回収されたり、逆に単に横のものを縦にするだけの哲学研究ではないものが改めて可能になるように思われる。




