黎明の京都学派
- その哲学的発足点の探究 -
主題として田辺が取り組んだのは数の拡張、つまり「自然数から始めて分数、無理数、負数、虚数の生成を論じ、自然数から整数、有理数、実数、複素数に数の概念が拡張せられる根拠」(T2:393)を明らかにすることである。ここで田辺が〈数の拡張〉と呼んでいるのは当時の数学基礎論における議論のひとつとして多くの数学者・哲学者によって論じられていた。数学者で言えばデデキント(Richard Dedekind, 1831-1916)やカントール(Georg Cantor, 1845-1918)など、哲学者で言えば上掲の新カント派の他にフッサール、フレーゲ、ラッセルなど時代を代表する数学者・哲学者が取り組んでおり、実際に田辺も彼らに『数理哲学研究』の中で言及している。
数の拡張を田辺は「直観に由って与えられた数の規定」(T2:399)の自発自展として捉える。すなわち、西田の純粋経験は主客未分の状態から思惟、知識へと進むことで諸学の基礎となるものであったが、田辺はこれを数の拡張に応用するのである。このことによって、自然数、整数、有理数、実数、複素数、変数という複雑な数への展開、さらには関数という数の間の関係を示すものまでが、純粋経験の自発自展によって説明される。つまり、数の拡張の根拠を「直観は其自発自展に由り其中に含む所の内面的関係を客観化」(T2:436)することに見出し、これによって公理の基礎づけを試みるのが初期田辺の数理哲学である。
西田哲学はすでに「実在に就て」(1907)で〈真実在とは何か〉を論じているため、最初から形而上学だったと言える。だが、特に『自覚に於ける直観と反省』(1917)の中盤以降、西田が「余は形而上学を要求する」(N2:6)と言うようにその傾向は加速する。その後を追うように、田辺も1918年の『科学概論』と「独逸唯心論に於ける哲学的認識の問題」から形而上学の構築を試みる。
では、なぜ田辺は形而上学に進む必要があったのか。それは新カント派の批判哲学にはその営為を可能にしている根拠が扱われていないと田辺が見なした点にある。この根拠としての真実在(第一原理)を探究する学が形而上学である。したがって、田辺は「現象の認識を可能ならしむるものとして批判哲学が立する所の原理は、また我々の個人精神において実現する実在的精神ともいうべきものに属する」(T2:166)ものと言う。すなわち、新カント派の哲学が拠って立つべき真実在は〈我々の内に実現する実在的精神〉であると言い、その探究としての形而上学の必要性を訴える。
ここで田辺が〈実在的精神〉というのは、本節(2)で見た西田の意味での神である。すなわち、田辺が純粋経験において一つになり価値を実現することができると捉えた神である。この神を、田辺は本節(1)で見た純粋経験としての「意識一般」として理解する1515初期田辺の意識一般について詳しくは浦井(2025)を参照。。意識一般は主客未分の純粋経験を敢えて「主観」と呼ぶものであった。意識一般は誰かの主観がそこから現れるような全体としての主観であり、その意味で個人が現れる以前に存在する主観である。すなわち、西田が「我々の意識は神の意識の一部」(N1:182)と言うような意味で、神の意識であるのが意識一般である。そのために田辺は意識一般を「形而上学の立場から終極の実在と認めらるべきものであって、また哲学の立場から真に神と称せられ得べき唯一のもの」(T1:323)と言う。このように、個人が純粋経験において合一する神を批判哲学を可能にする根拠としての絶対者と位置づけたのが初期田辺の形而上学である。
田辺はこの形而上学を、二節で見たように「認識論上カントの流を汲む先験的構成主義を採りつつ、之に直観を基とする実在論的基礎を与えんことを試み、終に一種の唯心論的形而上学を主張するに至った」(T2:157)と説明していた。すなわち、フィヒテを基礎契機とし、西田の『自覚に於ける直観と反省』と軌を一にする形而上学であった。高坂正顕は新カント派について、特に1915年頃から「彼等は自ら形而上学たらざることを力説するにも拘わらず、再びドイツ観念論の諸体系に導き帰される」(高坂1967: 283-4)と評している。つまり、西田・田辺と新カント派は1910年代中頃から─おそらく当時の西田・田辺は知ることはなかっただろうが─同じくドイツ観念論的な形而上学への道を進んでいた。その意味で、田辺にとって西田哲学は新カント派が歩むはずの道を先取して進んでいたと言える。すなわち、初期田辺にとって西田哲学の意義は、ドイツでも日本でも当時隆盛していた新カント派の哲学を、田辺から見える範囲での新カント派以上に徹底した仕方で遂行していたことだったと言えよう。
以上のように、西田の自発自展する純粋経験は西田自身がなしえた以上の可能性を田辺によって引き出され、それによって田辺は1918年に最初の哲学体系の構築─もちろん、後年のような成熟した体系とは程遠いものであるが─を試みた。このような〈純粋経験の自発自展〉を共通の足場とする西田と田辺の協同、そして田辺による哲学体系の構築が〈黎明の京都学派〉の相だったのである。




