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宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
中外日報社「宗教文化講座」
第22回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

黎明の京都学派

- その哲学的発足点の探究 -

浦井聡氏

西田は初期の思索におけるヘーゲルの位置づけについて、「「善の研究」に於ての純粋経験の自発自展(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)という考にも、私には最初からヘーゲルの所謂具体的概念の発展(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)の考が、その根柢に含まれていた」(N1:208)と述べている。西田が〈純粋経験の自発自展〉と呼ぶものは、「実在に就て」及び『善の研究』第二編で「唯一の者(﹅﹅﹅﹅)1212「唯一の者」とは『善の研究』の鍵概念「統一的或者」(西田1907:23/N1:65等)を指し、これは後年の西田が好んで用いる語では「一般者」である。だが、用語の混乱を避けるため、以下では「唯一の者」に統一して論じる。の自発自展(﹅﹅﹅﹅﹅)」(西田1907:230/N1:66)として現れている。この西田の見解を明らかにしていきたい。

西田の純粋経験論の基本的な考えは、純粋経験から出発して私に至る(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)というものである。つまり、主客未分の純粋経験から主・客が現れるのである。通常、純粋経験と言えばある特殊な経験として私から出発して純粋経験に至る(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)と考えがちだが、ここではそれが逆転している。そのためこの立場では、主観としての私は純粋経験の中に含まれていた一部分である。同様に客観も純粋経験の一部分である。この意味で、純粋経験は部分である主・客に対して全体である。純粋経験がひとつの全体であるから、西田はこれを「唯一の者」と呼ぶのである。したがって、「唯一の者の自発自展」とは第一に、〈主・客を含む全体としての純粋経験の自発自展〉を意味する。では、「自発自展」とは何だろうか。

その内容を解明するために、純粋経験の例として上で見た〈青空に見入っている状態〉を取り上げよう。純粋経験においては私の意識(主観)と青空(客観)はひとつになっている。だが、青空の美しさに見惚れているのは実際にはわずか数秒のことであり、すぐに主・客が分離して私の意識は青空を対象として認識し始める。この時すでに私は〈青空が美しい〉という認識を持つ主観である。つまり、〈青空に見入っている状態〉という純粋経験の全体は分割され、〈私〉と〈青空〉という部分が現れる。そして、私が注意を周囲に向ければ、空中に太陽や青色の濃淡、雲などがあること、地上には草木・地面・河川・生き物など周囲の事物があることに気づく。ここで青空という客観はさらに部分へと分割されている。さらに、例えば木に注意を向けた時に、それまでは〈木〉として認識していた物が枝・葉・幹などの部分に分かれることを認識する。このように、〈青空に見入っている状態〉という純粋経験の全体は、そこに含まれていた対象の全体が徐々に部分へと分割されていく性質を持っている。このことを言い換えれば、全体として一であった純粋経験が部分として多に分割されていくことと表現できる。西田が「真に一にして多なる実在(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)は自動不息でなければならぬ」(N1:70)と言うように、純粋経験はひとつの全体として内に多くの部分を含み、その分割は止まることなく進んで行く。したがって、「唯一の者の自発自展」とは第二に、「唯一の者」である純粋経験に含まれていた内容がその固有の内容に従って自ずから徐々に分節化されることを意味する。つまり、この分節化が「自発自展」である。

この見解によって西田が何を試みたかと言うと、それは『善の研究』劈頭の著名な言葉、「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明(﹅﹅﹅﹅﹅﹅)」(N1:4)するということに尽きている。すなわち、西田は「唯一の者の自発自展」によってあらゆる事象を説明しようとした。そのことを西田は「意志も知識も(﹅﹅﹅﹅﹅﹅)潜在的或者の体系的発展と看做す」(N1:31)と説明している。つまり、純粋経験に潜在する各部分がその含む内容を徐々に発現させることによって学問的知識や人間の意志・感情・思考もすべて説明できるというのが『善の研究』の立場であった。その点で、第三に「唯一の者の自発自展」は『善の研究』の学問的方法である。

以上のような純粋経験の自発自展を紀平は〈ヘーゲルと純粋経験論の調和〉と評し、これを西田は「具体的概念の発展」という語を用いて説明したのであった。この調和の根拠は、ヘーゲルの「概念」と西田の純粋経験が類似の位置づけを持つ点にある。ヘーゲルは『エンチクロペディ』§160で概念(具体的概念)は全体であることを示し、§166ではこの全体である概念の根源分割が判断であると述べている1313ドイツ語の判断(Urteil)はUr-teil、つまりursprünglicheTeilung(根源分割)だというのが§166の趣旨である。(Hegel 1992: 177, 182)。すなわち、判断とは〈SはPである〉のように主・客に分割された状態であるが、その分割以前の主・客を含む全体が具体的概念なのである。この〈主・客を含む全体〉という点でヘーゲルの具体的概念と西田の純粋経験は類似の位置づけを持つ。そして判断は、§166以降の『エンチクロペディ』の行論が示すように、徐々に高次の判断に進み、さらに推論、客観、理念へと展開する。このような具体的概念の展開が、西田の純粋経験の自発自展と類似の構造を持つために、両者の調和が指摘されるのである。

以上の純粋経験論を説いた「実在に就て」は好評を博したようで、紀平によれば「余輩は近時に於て此れ程(﹅﹅﹅)〔…〕成功したる論文を見た事がない(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)。他に余輩と同感の人々も多数と見えて、西田氏とは如何なる人なるかを余輩に問う人が中々多い(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)」(紀平1907: 116)と当時の哲学者の関心がまだ無名の西田に向くほどだったようである。この論文の出版の後、当時絶大な権力を持っていた井上哲次郎(1856-1944)の目に留まったと西田の書簡に書かれていることからも(cf.N18:103-4)、この論考が大きな成功を収めたことが分かる。

そして、田辺が西田哲学に魅了されたのもこの〈純粋経験の自発自展〉だった。その意味で、これこそが本稿が解明する〈京都学派の哲学的発足点〉ということになる。節を改め、田辺がこれを〈どのように有効に使用したか〉を見て、〈黎明の京都学派〉を描くという本稿の目的を果たしたい。

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長らくご愛顧を賜りありがとうございました。(2025.10.1)
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