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宗教と文化の専門新聞 創刊1897年
中外日報社「宗教文化講座」
第22回「涙骨賞」受賞論文 奨励賞

黎明の京都学派

- その哲学的発足点の探究 -

浦井聡氏

もうひとつは、〈哲学とは何か〉を巡る現在の状況である。世界哲学や非西洋思想の脱植民地化が強調される今日、ユク・ホイ(許煜, 1984- )は〈ヨーロッパの惑星化(planetarisation)〉という問題提起をしている。これは、ヨーロッパ文化がその近代の産物である科学技術を介して地球規模で展開することで非ヨーロッパ文化を呑み込むこと、すなわち地球全体がヨーロッパ化することを意味する。ホイはこの事態を、ヨーロッパが非ヨーロッパという他者に出会う時、「ヘーゲル的な弁証法におけるように、この他者はそこで自己の他者として認識され、最終的には止揚される」(Hui 2024: 54)ことと表現している。本稿の文脈に即して言えば、次のようになるだろう。すなわち、西洋の〈有の哲学〉に対する(﹅﹅﹅)京都学派の〈無の哲学〉、あるいは西洋の〈キリスト教に基づく哲学〉に対する(﹅﹅﹅)京都学派の〈仏教に基づく哲学〉というアンチテーゼの側面を強調するならば、これらの側面によって京都学派の意義を提示できるのは一過性のものであり、結局は西洋哲学という客観精神の弁証法的発展の過程に回収されかねない。その時、京都学派は言わば〈西洋哲学の惑星化〉のための糧として消費されるに過ぎないのではないだろうか。

本稿の目的は、以上の状況を鑑みて、京都学派の哲学的発足点に立ち戻り、京都学派像を描き直すことである。本稿が〈哲学的発足点〉と呼ぶのは、戸坂がこの学派の基礎と見なした西田・田辺が、どのような哲学的見解を共有することで協同するに至ったかである。この哲学的発足点を明らかにすることにより、本稿は京都学派が1910年代に形を取り始めた時の形態、言わば〈黎明の京都学派〉を描く。そのため本稿は、〈京都学派とは何か〉に対する新たなドラスティックな回答を与えるものではない。だが、〈京都学派がどのように始まったのか〉を提示することにより、〈京都学派とは何か〉を再考する端緒を開き、西洋哲学の対照項として描かれた京都学派でなく、京都学派の文献に根ざした研究の基礎を築くことを目指す。

この目的のために本稿が依拠する京都学派の規定は、提唱者・戸坂潤の「西田=田辺の哲学」(戸坂1966b: 176)である。西田と田辺は、現在の資料状況で分かる限りでは、1914年から協同して哲学研究を進めている。この年からの2人の協同作業が、約20年後に京都学派として花開くものの基礎を築いた。本稿が注目するのは、初期西田哲学が田辺を魅了した理由であり、1910年代の田辺がいかに初期西田哲学を継承して発展させたかである。つまり、戸坂が「田辺博士が、西田博士の哲学をどのように有効に使用することが出来たか(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)」(同上175)と言うことの具体的な内容を、1910年代の時代状況を踏まえて解明することで〈黎明の京都学派〉を描く。

そのために本稿が取り上げるのは、田辺による西田の純粋経験論の継承である。このように言えばありきたりな主題を扱うように見えるかもしれない。だが、紀平正美(1874-1949)が『善の研究』(1911)が出る4年前にすでに「近時八ヶ間敷い(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)純粋経験説」(紀平1907: 115)と形容するほどに純粋経験が流行していた時代に、なぜ田辺が他ならぬ西田の純粋経験論を選び、それを「どのように有効に使用することが出来たか」は現在までの研究では明らかになっていない。このような研究が現在まで十分になされて来なかったのは、京都学派研究が第一に西田研究に集中し、田辺研究は少なからずあれども、1910年代の初期田辺に関する研究が無いに等しい状況が続いてきたからである44田辺研究が『カントの目的論』(1924)以降に集中し、1910年代の著作について詳しく論じる研究が無いに等しいのは、2020年までの国内外の二次文献の目録(米田(1991)、日高(2008/2009)、浦井(2021))が示す通りである。2021年以降も状況は大きく変わらないが、1910年代の田辺の思想を論じるものとして先に挙げた浦井(2025)以外に、山本(2022a)、山本(2022b)、満原(2024)がある。この三論考も純粋経験に触れてはいるが、いずれも本稿の主題である田辺による西田の純粋経験論(自発自展する純粋経験)の継承の意義とその敷衍(体系哲学化)を扱うものではない。

以上の目的のため、本稿は以下のように構成される。まず、(1)戸坂潤による京都学派の最初の規定を確認し、(2)1910年代の西田と田辺の協力関係について見て、(3)1900年前後の日本における純粋経験論の流行の中での西田説の意義を明らかにした上で、(4)田辺による西田の純粋経験論の継承と展開を明らかにする。そして最後に、現代の私たちが思索する上で西田・田辺から学び得ることを考察したい。

一 戸坂潤による京都学派の規定

京都学派はしばしば西田・田辺を中心とする知的ネットワークとして理解される55例えば藤田正勝の「西田・田辺を中心にして、その学問的・人格的影響を受けた者たちが相互に影響しあい、密接な関わりのなかで形成した知的なネットワーク」(藤田2024:29)や竹田篤司の「西田、田辺の両者、ないし、その何れかから教えを受けた者たちの特定の一群」(竹田2001:306)などがそうである。。本節では、このような理解が現れる以前、戸坂潤がこの語を最初に使用した時の規定を明らかにする。

戸坂は1932年に論考「京都学派の哲学」を発表し、そこで初めて京都学派という言葉を用いる。この論考では、西田哲学がすでに西田ひとりの哲学に留まらず、その継承者により形成される学派へと展開していることが説かれる。以下の一節が、京都学派の語の初出である。

西田哲学は西田学派(﹅﹅﹅﹅)にまで、或いは云わば京都学派(﹅﹅﹅﹅)にまで、現に発展しつつあるのである。それは今や立派に形を持った一つの社会的存在物である。西田哲学を西田学派にまで踏み固めることは、田辺元(﹅﹅﹅)博士のみ許される尊敬すべき努力であるように見える。田辺博士が、西田博士の哲学をどのように有効に使用することが出来たか(『数理哲学研究』)とか、又最近の田辺博士の理論が、西田哲学の諸テーゼを、如何に忠実に整理し、綴り合わせて行くかを見れば、このことは判ると思う(最近三木清氏の三木哲学が、急速に西田学派の有力な後継者となりつつあることも亦注目に値いする─『歴史哲学』)。(戸坂1966b: 175/傍点原文)

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長らくご愛顧を賜りありがとうございました。(2025.10.1)
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