写真家・土門拳遺愛の小石仏(2/2ページ)
文化財調査支援グループYAMAYA代表 山川均氏
裙(裳)裾は腰の部分で大きく前に折り返し、脚部の衣紋は連続するU字形で表現されている。また肩や腰、脚部には天衣の表現がある。
種子(梵字)は頭部の左右とその上に計三字が彫られており、それぞれが蓮座上の円相内に丁寧に薬研彫りされている。このうち頭上の種子は胎蔵界大日「アーンク」、向かって右側の種子は釈迦を表す「バク」、左側は弥勒を表す「ユ」であろう。こうした種子の構成は珍しく、根拠となった儀軌に興味が持たれる。
石材は全体的に黄褐色を呈している。先述のように、土門はこれを二上山の松香石と考えていたのだが、仔細に観察すると松香石特有の黒いピッチストーン(松脂石)が含まれておらず、またそれよりやや硬質である。さらに石仏外周の剥離が玉葱状であることなどから、この石材は播磨産(現在の兵庫県高砂市で産出)の龍山石だと思われる。
ちなみに龍山石は、藤原宮大極殿や大型古墳の石棺などでも使用されており、松香石に勝るとも劣らない名石である。同石仏は、技術的にはノミさばきの流麗さは見られず、製作時期は土門が推定したような弘仁年間頃(平安時代初期)まで遡ることはないだろう。一方で、種子の薬研彫りには鋭さがあり近世まで下ることも考えられない。おそらく室町時代中期〜後期(15〜16世紀)の製作だと思われる。
土門自身が先のエッセーの中で注目しているが、この石仏は凝灰岩製のものとしては非常に風化が少ない。土門はその理由を「長く土中に埋没していた」からだと推定しているが、この石仏が中世の作例として比較的小型であることを考え合わせれば、保存状態の良さはこの石仏が屋内で祀られていたことを示唆しているものと捉えられる。
また本石仏は平安京羅生門(羅城門)付近で発見されたということなので、おそらく石仏は京都市中のどこかで祀られていたものであろう。
石材が播磨産であったことを考えるならば、京都在住で播磨方面に縁故もしくは所領があった貴族か武士が願主となって造立された石仏ではないかと思われる。
なお本石仏の像容は素朴であり、プロポーション的には頭部が大きく作られ、あたかも子供のような印象を受けるものとなっている(童形)。あるいは我が子を亡くした親が、縁故のある播磨の僧侶に依頼し、その指導によって現地の石工が製作したのがこの石仏ではなかったか。願主であった親はこの石仏を屋敷内もしくは持仏堂に安置し、亡き子を偲んだのではないだろうか。
土門もまた、1947年に5歳の娘を不慮の事故で亡くしている。この童形の小石仏が「鬼」とも呼ばれた写真家を強く惹き付けた背景に、上記のような造立背景があったと考えることも、あながち無理な想像ではないのかもしれない。
なお余談であるが、民俗学者であり歌人・詩人でもあった折口信夫(1887~1953)は、中将姫とこの地に葬られた悲劇の皇子・大津皇子(663~686)の亡霊との交流を軸に、小説『死者の書』を書いている。
同書中で折口が幻想的に描いたように、いにしえより死者と生者、仏と人が交錯する當麻の地は、土門拳遺愛の十一面観音石仏が安置される場所として、まことにふさわしい。
十一面観音石仏は、當麻寺中之坊霊宝殿にて7月30日まで公開している。





