写真家・土門拳遺愛の小石仏(1/2ページ)
文化財調査支援グループYAMAYA代表 山川均氏
わが国を代表する写真家・土門拳(1909〜90)は、1961(昭和36)年3月1日に発行された『藝術新潮』誌上において「松香石について」というエッセーを執筆している。戦中から戦後にかけて、市井に生きる庶民の日常的な姿をカメラに捉え、写真におけるリアリズムを追求した土門は、しかし58年に代表作である『古寺巡礼』(美術出版社)の製作を開始するなど、50歳前後を節目に日本の古美術に深い関心を示すようになっていた。このころ、取材のため多忙を極めていた土門は翌59年、過労のため脳出血に倒れ、半年間の療養生活を強いられた。冒頭に掲げたエッセーは、脳出血の後遺症が残り、カメラの操作すらままならない不自由な体で執筆されたものである。
エッセーの主題となった松香石とは、奈良県香芝市と大阪府太子町にまたがる秀峰・二上山(標高517㍍)で産する軟質の凝灰岩のこと。『古寺巡礼』の撮影において京都や奈良の名刹を巡っていた土門は、現場で多くの松香石製の石仏や石塔に触れ、それに魅入られるようになった。ここで紹介する十一面観音石仏はこのエッセーにおいて土門自身が世に公開したものだ。
同エッセー中、土門はこの石仏について「松香石製の十一面観音石仏は、羅生門址の近くの祠の中に、近世の石地蔵などにまじってころがっていたのを発見された。平安初期、弘仁様式の古朴愛すべき小石仏である。これも明治か大正の頃、土木工事の際に偶然掘り出されたものであろう」と紹介している。土門はこのころ、伏見の古美術商・相原知佑宅をたびたび訪れ、古美術の話を聞いていた(自身は「相原美術学校」と呼んでいた)。この石仏と土門が最初に出会った場所は、あるいはこの相原美術学校だったのかもしれない。
土門の死後、この石仏は個人収集家の所有となったが2018年10月に當麻寺中之坊(奈良県葛城市)に寄贈された。
當麻寺中之坊は、當麻寺本尊である當麻曼荼羅の伝承上の作者として知られる中将姫(747~775)が剃髪・修行した場所で、姫が深く信仰したと伝わる十一面観音像(導き観音)を本尊とする。
二上山で産する石を材料に使い(後述のように実際は播磨産石材であった)、由緒ある十一面観音像を本尊とする中之坊は、土門拳遺愛の十一面観音石仏の寄贈先として最もふさわしいと思われたのだろう。
総高は49㌢、像高は37㌢を測る、比較的小型の石仏である。背面は石ノミによる粗い調整のままで、仕上げはなされていない。現状では舟形に整形されているが、頭上にある種子(梵字)の上半部が欠けていることなどから、本来は中世的な形態で、周囲に縁を巡らせた方形の石仏だったものが、後に舟形に作り変えられたのだと思われる。
左右が独立した蓮台(踏み割り蓮台)の上に、十一面観音立像を半肉彫り(浮き彫り)とする。体部に比較して頭部を大きく作っており、首の表現はない。左腕は肘を屈し、未開敷蓮(開いていない蓮の花)を持つ。右腕は風化のためはっきりしないが、垂下して与願印を作っているように見える。頭頂部に頭上面を表し、その下に二段にわけて面相を作り出しており、名称の通り合計十一面ある。目は一条の刻線で表現され、鼻はやや幅広に作る。総じて穏やかで素朴な風貌である。頸の下には三道(3本の皺)があり、胸には胸飾りと瓔珞の表現がある。





