国宝・親鸞筆註釈書の実像(1/2ページ)
龍谷大非常勤講師 深見慧隆氏
2025年12月、浄土真宗本願寺派本山・本願寺のご高配により、3日間にわたり国宝・親鸞筆『観無量寿経註』『阿弥陀経註』の原本調査を行う機会を得た。
両書は、浄土真宗の開祖・親鸞(1173~1262)が『観無量寿経』『阿弥陀経』を書写し、その行間・欄外・紙背に関連する章疏の文を細字で書き入れた自筆本である。もとは一巻の巻子本で、1943年の寺宝調査において宝物庫から発見され、翌年の修復時に現在の二巻に分離された。その後、1952年には、親鸞自筆本として国宝に指定されている。
今回の調査では、1億画素級の高精細デジタルカメラを用いて両書全体を記録し、最大倍率6千倍のデジタルマイクロスコープや角筆スコープによって、従来の影印本では確認できなかった原本上の痕跡を精査した。あわせて、親鸞在世時に参照可能であったと考えられる関連諸本との比較にもとづき、経文・註記の依用本を明らかにしたうえで、両書の成立過程を検討した。本稿では、今回の原本調査から浮かび上がった両書の実像について述べたい。
両書はいずれも奥書を欠くため、成立時期は筆跡や引用註記を手がかりとして推定されてきた。従来、両書の筆致は70歳以降の親鸞自筆とやや異なり、「照」・「為」などの烈火を3点に記す字形から、親鸞壮年期の筆とみる見解が示されている。また、善導「五部九巻」のうち『般舟讃』のみが両書に引用されていないことも重視されてきた。『般舟讃』は、1217(建保5)年、親鸞45歳の時に静遍が仁和寺経蔵から円行将来本を発見したと伝えられる。そのため、『般舟讃』の不引は、両書の成立がそれ以前にさかのぼる根拠の一つとされてきた。こうした筆跡上の特徴と『般舟讃』の不引に加え、流罪以後の修学環境も考慮され、両書の主要部分は親鸞の法然門下時代、すなわち29〜35歳頃に成立したとみられてきたのである。
しかし、この推定にはなお検討すべき点がある。親鸞壮年期の筆跡資料は二尊院蔵「七箇条制誡」の署名にみえる「僧綽空」に限られ、比較資料として十分とはいえない。筆跡の年代を確定できるもっとも早い資料は、親鸞63歳の奥書を有する聖覚『唯信鈔』書写本であり、両書の筆跡からいえるのは、ひとまず60歳代の筆跡に近いという程度にとどまる。また、両書には一部80歳以降の後期筆跡に近い字形も認められるため、筆跡だけで成立時期を法然門下時代にまでさかのぼらせることは難しい。
さらに、『般舟讃』が発見されたとしても、それがただちに広く流布し、親鸞のもとで参照可能になったとは限らない。広く流布する契機となったのは、1232(貞永元)年、親鸞60歳以降の開版であると考えられる。そのため、『般舟讃』の不引は軽視できないものの、それだけで両書全体を45歳以前の成立に限定することはできない。両書の成立過程を考えるには、筆跡や引用典籍だけでなく、原本に残された書き入れと、親鸞在世時に参照可能であった諸本との比較検討が不可欠である。
今回の調査で注目されるのは、『観無量寿経註』に角点とみられる痕跡が確認されたことである。角点とは、墨書によらず、角筆などの尖った筆記具で紙面に圧痕を付け、読解上の目印としたものである。角筆スコープを用いた調査では、「菩薩」や「念」などの文字付近に、二十箇所ほどの角点とみられる痕跡を確認した。
これまで親鸞自筆本で角点が確認されていたのは、『教行信証』(真宗大谷派蔵、坂東本)のみであった。今回確認された痕跡は坂東本の角点と近似しており、『観無量寿経註』の性格を考えれば、親鸞自身によって付された可能性が高い。角点の具体的な性格についてはなお検討を要するが、親鸞が経文を書写した後も、手元に置いて経文の確認や検討を重ねていたことを示す痕跡として注目される。
また、マイクロスコープによって、従来判読困難とされてきた細字や書き入れも一定程度復元できた。高田専修寺所蔵の存覚書写本とも比較することで、復元した文字がどの本文・註記に対応するのかを検討する手がかりを得た。





