第100回「仏教文化講座」を終えて(1/2ページ)
真宗高田派法主 常磐井慈祥氏
真宗高田派本山専修寺で8月1~5日、毎年恒例の仏教文化講座が開催された。但し、今年は記念すべき第100回ということで、「堯猷上人と近代仏教学の展開」という共通テーマの下で、各講師に講演をしていただいた。幸い、近年稀に見る大盛況をもって終えることができ、堯猷上人への報恩謝徳が果されたことは歓喜極まりない。
さて、堯猷(幼名鶴松、高田派第22世法主)は、近衛篤麿の弟であり、武蔵野女子学院の創設者である高楠順次郎とほぼ同世代であるが、前二者に比べ、知名度も遙かに低く、彼及びその業績に論及した論考は皆無に近い。それでは、堯猷の業績は等閑視されても良いものなのであろうか。
幼い鶴松の思想形成に大きな影響を与えたのが9歳年上の兄である近衛篤麿であった。明治初年は、日本仏教界にとって試練の時であった。神仏分離と神道の国教化が画策され、寺請制度に安住していた時代は終焉を迎える。さらに極端な欧化主義が横行し、少なからぬ知識人層が「仏教不要論」を唱える。日本仏教界全体が存亡の危機に瀕していたことは間違いない。
ところが、篤麿の主義主張は、そのような急進的な思潮に与しない、確固たるものであった。篤麿は「アジアの中の日本」を貫き、アジア諸国が協調して発展を計るべきだと力説している。日本は仏教を大改革して、改めて今後の日本人の精神基盤に位置付け直すべきだとした。傾聴に値する、英明な見解である。日本に古来から伝わる文物を保護する古社寺保存法を提唱したのも篤麿であった。篤麿は、同い年の両弟である英麿と鶴松を殊の外可愛がって、助言指導している。両弟の長年に亘るドイツ留学も篤麿の慫慂によるものに他ならない。
さて、鶴松は1872(明治5)年3月、近衛忠房の三男として生まれているが、未だ物心の付かない4歳にして、専修寺への入寺が決まり、その後、伊勢一身田で「貫練教校」の生徒となっていたことが、今回判明した。
鶴松の専修寺入寺は、兄英麿の津軽家入室に先立つ1年前であった。専修寺へは、先代の堯熈も近衛家から入寺しており、2代続けての近衛家からの養子となる。堯猷の生涯で、まず何を挙げるべきかと問われれば、誰もが「十三年にも及んだドイツ留学」を想起するであろう。
堯猷畢生の留学は、2通の手紙から始まっている。その一通は、兄篤麿が85(明治18)年10月3日付で祖父である忠熈に宛てた手紙である。その要点は以下の通りである。
鶴松は既に僧侶になることが定まった身であるから、洋行などは不必要だと考える筋も少なくないであろう。
しかし、昨今の両本願寺を初めとした真宗が様々な困難に直面していることは自明であり、門主の言うことにすら門徒が異義を唱えかねない現状である。そこで新門主が「ウカウカしていて」は、本山の今後の方向性も定まらず、宗派全体の浮沈に関わる事態に陥る。ここで、新門が西洋諸国の宗教事情を見究め、そのような見識を持つことが今や必要不可欠だと思う。常磐井家においても、これからの仏法を隆盛化しようとの考えならば、是非とも私の意見を聞き入れて欲しい。
実に説得力に富んだ内容で、今更ながら、篤麿の見識の深さに敬服するしかない。





