第100回「仏教文化講座」を終えて(2/2ページ)
真宗高田派法主 常磐井慈祥氏
もう1通の手紙は、86(明治19)年3月9日に鶴松が義父であり、専修寺21世法主堯熈に宛てた渾身の懇望状である。以下、要点を記す。
弟(?)である英麿のドイツ留学が決定し、いよいよ今秋に出航するという。私も、この機会を失せず、英麿と共に渡独する決意をした。この機会を逃しては、次にいつ、同様なチャンスがあるか解らない。まさに洋行すべき時である。父上よ、どうかよくお考えの上、許可して下さい。私が洋行の機会を得るならば、真剣に勉強し、ドイツの大学に入学し、ドクトルの称号を得ることが最終の目的である。待ち受けているであろう多様な艱難辛苦をも克服して、刻苦勉励する決意は既に出来ているから、何とか許可してください。私一人が洋行を決めたとしても、父上がそれを認めないなら行くことは不可能である。私の心は既に遠いドイツにあり、ドイツへ行かないという選択肢は私には最早ない。どうか早々に決めて下さるよう切願する。
14歳の少年が書いたとは信じられないような、迫真の内容である。篤麿の手紙にも力を得たに違いない。忠熈は専修寺21世堯熈の父であり、それも説得材料になったであろう。専修寺入寺に際し、幼い時から真宗・仏教を一身田で学んで来た健気な実績もあり、堯熈も洋行を拒絶することは難しかったのであろう。晴れて、許諾され、ドイツ留学に旅立つことになる。時に、86(明治19)年11月16日のことであった。この渡航は、お雇い外国人として著名な英国人建築家ジョサイア・コンドルと、その関係者が渡独する行程に急遽便乗させてもらう形で実現したものだった。渡航中の克明な記録が英麿の随行であった齋藤璉の『東半球航記』に記されている。
荒天に見舞われ、幾度も落命の危機に瀕し、南洋の灼熱の暑さから欧州の厳寒をも数カ月の内に味わった、過酷な行程であったが、コンドルらとの友好的かつ和やかな日々も窺われる。
『航記』には、船中の両君やコンドルの様子のみならず、上陸した諸都市の状況、建築、街路、人々の服装、体格や性情までもが具に記されていて、地誌・風俗誌としても貴重である。
イタリアのブリンディジに上陸し、そこから鉄路ベルリンを目指し、翌87(明治20)年の元日にベルリンに到着する。翌日には、篤麿の熱烈歓迎を受け、兄弟三人が再会を果す。鶴松は、コブレンツに相対するライン河右岸の小都市ノイビートのギムナジウムに通うが、何らかの不都合により、英国ロンドンに渡る。
ロンドンでは、高楠順次郎らに会い、種々の助言を受け、シュトラスブール大学でロイマン博士に師事することとなる。シュトラスブール大学には、93(明治26)~98(同31)年に在学し、梵語学を専攻する。その詳細は不明であるが、梵語の語句の厳密な解釈方法を体得するものであった。研鑽の成果を「須摩提女経の研究」と題する論文にまとめ、ここにドクトルの学位を取得している。
義父堯熈に宛てた手紙での宣言が12年を経て達成されたのである。99(明治32)年7月24日に13年ぶりに帰国し、程なく得度し、堯猷と名乗り、専修寺法嗣に就任する。翌年には、帝国東洋学会の発起人兼会長に就き、京都帝大講師を勤める。1926(大正15)年に仏教文化講座を開設し、学問の普及に尽力した。しかしながら、堯猷の学問はかなり独自色が強いようで、京大時代のほぼ唯一の弟子である岩本裕も個性的な人柄で知られている。堯猷の長男で、23世法主堯祺は父堯猷の学問を「象牙の塔に立てこもって、重箱の隅を妻楊枝でつつくような」と酷評しているが、これは親子の相克による言と言うべきであろう。
いずれにせよ、堯猷の学問の客観的な評価はその情報の少なさ故、至難となっている。これを打開することこそが、文化講座第100回の節目の年の喫緊の課題である。10月には、今回の各講師が一堂に会し、座談会を開くことになっており、講演の内容と合わせて、その成果を出版する運びになっている。それによって、堯猷の学問的再評価の端緒が開かれることを切望する。堯猷の晩年は正に孤高の人であったが、もう少し光を当ててあげたいと思うのは筆者だけではあるまい。
記念すべき年に合わせるように、鶴松14歳、つまりドイツ渡航直前に描かれた肖像画が昨夏、学習院大による美術工芸品悉皆調査の過程で発見され、5~6月に霞会館記念学習院ミュージアムで開催された「専修寺展」で初公開され、大いに注目を浴びていた。この肖像画を含む、堯猷上人ドイツ留学に関わる展観「ドクトル堯猷」が専修寺宝物館「燈炬殿」で、9月27日まで開催されているので、是非来館して欲しい。





