批判する教皇 宗教者の発言の重さと期待(9月16日付)
カトリックの教皇レオ14世は、現代世界に向かってしばしば率直な見解を表明している。5月には就任後初の回勅で「人工知能の時代における人間の保護」について述べ、テクノロジーが「新たな形態の隷属」を生み出すのであれば、それは「人間の尊厳という根本原理」に反するとして警戒を促した。4月にはチェルノブイリ原発事故から40年に当たり、原子力エネルギーの責任ある平和利用を呼びかけ、またトランプ米大統領の発言に対して、戦争を煽る「全能感の妄想」と批判した。これらは、宗教者が政治や経済・社会の活動について、時として本質的な批判を提起することの重さを示すものと言ってよい。
平和の大切さや戦争の悲惨さを訴える声明などは日本の教団宗派でも折に触れて発信されている。伝統仏教教団は宗議会などで年度計画や時代社会に対する見解を示しているし、新宗教教団も教団行事などに際して、トップが信徒に向けて教団の方針や時代認識を直接表明する場面がある。それらは基本的に宗内に向けての施政方針であり、檀家や信徒に対する教化・指導という意味では、教団構成員への呼びかけにとどまっているとはいえ、教団宗派が自らの信念や考えを公に発信する機会となっていることは否定できない。
他方、日本の宗教者は、社会や政治の問題に関して及び腰だと指摘されることがある。理由の一つとして、戦後の日本では宗教が政治に関与することに神経質な面があり、宗教と政治が近接することへの警戒感が強いことが挙げられる。現憲法下で明確にされた政教分離は本来、国家の宗教的中立性を要請する原則であって、宗教が政治に関与することを否定するものではないが、宗教教団が政治に関わり、また政治的発言を行うことに慎重な意見を持つ人は多い。近年オウム真理教事件が与えた衝撃や、旧統一教会と自民党との癒着的関係など、宗教と政治の近接が引き起こす危険な状況や兆候への反感が社会に根付いていることも背景にあると考えられる。
しかし、宗教が本来、人間の内なる要求に応じて求められたものであり、社会や国家、人類レベルでの共同体に存在の意味を問いかけるものであるなら、個としての人間に関してだけでなく、政治や社会の矛盾に対しても関与することは当然あり得るし、ローマ教皇がしたように、国や社会が軌道を逸脱すると考えられる時に宗教的見地から警鐘を鳴らし、修正を促す発言や行動を世に示すことは、何ら懸念すべきものではないはずである。宗教者の発言が本質を突いたものであれば、宗教への期待もまた大きくなるだろう。






