AI僧の登場 学び合えるのは人間同士(10月28日付)
ロボットにAI(人工知能)を搭載したAIロボットが登場した。AIに仏教の知識を詰め込んだロボット僧も試行されている。人間の悩みや苦しみに対して、ロボットがブッダの教えを示すことになれば、現代の私たちが時空を超えてブッダと対話することが可能となるように考えられる。
大蔵経のテキストをベースにした仏教の「智慧」をAIにデータとして学ばせると、人間の現実的な悩みや苦しみに対応してAIが必要な回答を選び出し、「解決」の手がかりを与える。これは知識の分配という道筋に、一つの可能性を開くものと言えるだろう。ただし、それはどこまでも、対症療法的な知識の提供という以上のものではなく、それをどう受け入れ、参考にして生かすかは、AIから知識を得た人間の側の判断に委ねられている。
一方、対応するのが人間である場合は、悩める者と答える者は、共に人間同士として悩みや苦しみを考えることになる。互いに人生の途上にある者同士、人間という不完全な者同士である限りは、十分な答えは導き出せないかもしれないが、それ以上に、それぞれの人生経験をもとに現実的な悩みや苦しみを考え、共感あるいは反発しながら理解を深めていく時間を過ごすことができる。そこから得られるものは、人は人との関わりの中でこそ生きる意味を考え、深めることができる、という確信に他ならないだろう。
知識とは物事に対する私たちの認識の蓄積であり、人類の経験知の集積と言ってよい。様々な書物や資料の中にデータとして保存・継承されてきた知識から、必要な情報を選択して参照するという意味では、それがAIを介した提供であれ、人を介した伝達であれ、内実は変わらない。ただ、AIから得られるものは、データそのものの分割配分であるのに対して、人を介した知識の受容は、そこに人間同士のやりとりが加わり、知識の意味を理解する際に交わされる対話と想像力が加味される。教育指導の在り方とAI利用との根本的な違いがそこにはある。
このことから敷衍すると、ブッダの教えを現代の僧侶が説き示す際に重要な意味を持つのは、その言葉がデータとして集積された経典の言葉や解釈を示すことだけに終わらないという点である。僧侶自身が理解し体得した教えを、自身の言葉で表白する場面がそこに現出する、説く者と聞く者との関係は、AIと人間との関係からは決して生まれない「あうんの瞬間」をもたらすだろう。だからこそ、AIの利用については、その効用と効果を十分見極める必要があると言わなくてはならない。






