国宝・親鸞筆註釈書の実像(2/2ページ)
龍谷大非常勤講師 深見慧隆氏
親鸞在世時の日本には、玄昉(?~746)以来、伝来・書写され続けてきた一切経の系統(日本古写経)だけでなく、中国や朝鮮半島で刊行された開宝蔵・高麗版(初雕版)・福州版(東禅寺版・開元寺版)・思渓版(前思渓版)などの刊本大蔵経も積極的にもたらされていた。また国内でも、特定の仏典を木版印刷した和刻本が流布していた。つまり親鸞の周辺には、同名の仏典であっても、異なる本文をもつ複数の写本・刊本が存在していたのである。
このことは、両書に見える異本註記からもうかがえる。両書には、「有本」「或本」「古本」「疏」など、本文とは異なる別本の情報を示す註記が見られる。たとえば『観無量寿経註』では、「四十八願」の「八」の下に挿入符号が付され、上欄に「古本大字」と記されている。これは、親鸞が本文とは異なる別本を確認し、その差異を書き留めていたことを示している。
関連諸本と比較すると、少なくとも『観無量寿経註』には6種類の『観無量寿経』本文、『阿弥陀経註』には3種類の『阿弥陀経』本文が認められる。さらに、両書に引用される善導『往生礼讃』にも異なる2種類の本文が確認される。親鸞は日本古写経、刊本大蔵経、和刻本、章疏所引文などを参照しながら、複数の諸本を照合し、その異同を検討していたのである。
以上の検討結果は、両書の成立時期を考えるうえでも重要である。両書には複数の諸本に由来する経文・註記が反映され、原本上にも墨書・朱書・声点などが重層的に書き入れられている。したがって、両書全体を親鸞の法然門下時代に成立した書物とみるだけでは十分に説明できない。
まず、『阿弥陀経註』の経文部分には思渓版大蔵経所収本、または戒度『阿弥陀経義疏聞持記』所引本のいずれかに通じる南宋版系の『阿弥陀経』本文の影響が確認される。思渓版大蔵経は1211(建暦元)年、親鸞39歳頃に日本臨済宗の祖・栄西(1141~1215)によって日本にもたらされたと伝えられる。また、『聞持記』は南宋で1217(嘉定10)年に刊行された典籍である。さらに、両書の引用註記には宗暁『楽邦文類』が用いられているが、同書は俊芿(1166~1227)によって請来されたとされ、俊芿が京都に入ったのは1218(建保6)年である。これらを踏まえるならば、両書に見られる経文や引用註記のすべてを、親鸞35歳以前に成立したものとみることは困難である。
一方で、『般舟讃』が引用されていないことも軽視できない。同書は貞永元年以降に開版され、広く流布していったと考えられるため、経文や引用註記の中心部分は、それ以前に形成された可能性がある。ただし、異本註記の書き入れには、親鸞60歳頃以降に京都で刊行された和刻本の本文も反映されている。これは、成覚房幸西(1163~1247)を祖とする一念義系の法然門流によって開版された浄土教版に通じるものである。
また、マイクロスコープによる調査で原本上の墨書・朱書の重なりを確認したところ、まず経文が書写され、次に引用註記が加えられ、その後に異本註記が記され、最後に声点が施されたと考えられる。角点は少なくとも本文や引用註記が書かれた後に付されたものとみられる。
以上を総合すれば、両書全体を親鸞の法然門下時代に成立した書物とみることはできない。経文と引用註記の主要部分は親鸞の関東在住期(42歳~60歳頃)を中心に形成され、その後、京都帰洛後にも異本註記・声点などの加筆が継続されたとみるのが自然であろう。
以上の成立過程を踏まえるならば、『観無量寿経註』『阿弥陀経註』からは親鸞が特定の一切経のみに拠るのではなく、当時の最先端に位置する南宋版や浄土教版を含む複数の写本・刊本を参照し、仏典の本文を比較検討していた姿が見えてくる。
両書には仏典の本文に向き合う親鸞の厳密な姿勢とともに、写本から刊本へと仏典受容が移行していく13世紀日本のテクスト環境が鮮明に映し出されている。原本に残された痕跡をたどることによって、国宝・親鸞筆『観無量寿経註』『阿弥陀経註』の実像は、より具体的に浮かび上がってくるのである。





