全国水平社創立100年に思う(2/2ページ)
兵庫県多可町立杉原谷小教諭 浅尾篤哉氏
つまり、部落差別を宿業として諦めて来世の浄土を願うのではなく、浄土に生まれることを願う信仰によってもたらされる新たな主体は、来世ではなく、矛盾に満ちたこの世(穢土)を厭い、真実を成就する実践を呼び起こさずにはおかない。本来人間は平等な存在である。それを阻んでいるものを取り除いた先の現実にこそ浄土があるということである。
水平社に参画した青年たちは、親たちの反対に向き合わねばならなかった。その若者たち、奈良県柏原の西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作らを励まし、水平社創立に向けて支援したのが、当時『中外日報』の記者であった三浦参玄洞である。
三浦は、親たちに対して、
あなた方は御開山の御門徒として、仮の世の事にあくせくするのはお恥ずかしい事だ、御勿体ないことだ。いずれはお浄土に参ったら一列平等の証りが開かれるのじゃもの…と云った風な一面のみを眺めて、彼の御同朋御同行と仰せられた人間的自覚に生くる一面を見落として御座るのじゃないですか。いやしくも末は御浄土で同一味の証りを開く事を信楽する位の道連れが、不合理な差別観念によって同朋を虐げて居るというようなむごたらしい事を平気で見逃しておくのは、第一あなた方の信仰そのものをも正さねばならぬ事柄だと思います。お浄土に参る信仰が現実に働き出したとき、他人の不合理を認容するというような極めて親切でない態度がとれよう筈がないと思います。出来ても出来なくともお浄土に参るにふさわしい道連れを地上にこしらえるという事に骨を折らずには居れなくなった時、始めて親鸞聖人のお心持ちに同する事が出来るように私には考えられます…
(「ある夜」(下)『中外日報』1922年2月7日)
と説得した。
差別を無くそうとすることは、信仰に生きるものとして当然のことではないか、そんな世の中をつくるために動き出したことは真宗門徒として親として、支援して当然のことではないかと三浦は、信仰を踏まえて説得したのである。
水平社が結成されると、共に運動を進めてもらいたいという期待もあったのだろう。すぐに先の決議を持って水平社の人々は本願寺へ向かった。
一方、社会主義者からは当初より、水平社の運動から宗教的気分を斥けるべきであるという批評が出されていた。水平運動も開始当初は、大きく発展するかにみえたが、やがて階級闘争に与する動きに傾き、分裂の危機に直面した。
三浦は、『中外日報』紙上で、初期水平運動を支援し健筆を振るった。その視点は、「人間を尊敬する」こと、差別糺弾の必要性、無産階級運動に理解を示すが水平運動独自の立場を堅持することであった。
水平社の運動が再度盛り返すのは、33(昭和8)年の高松差別裁判闘争である。そこでの判決は、02(明治35)年、広島高裁が、被差別部落出身を隠して結婚したことは「詐欺」と示した差別的判決にのっとったものであった。
四国・高松の部落青年が自らの出身を隠して女性と「同棲」したことは「誘拐」であるとし、懲役1年の実刑判決を受けたことに対して、反対闘争が展開された。これは、明治維新の時に出された賤民廃止令が、被差別身分をなくしただけで、文面に過去の差別的慣習の廃止・禁止を明記していないために生じた判決であった。
被差別身分が制度としてなくなってからも、差別が当たり前のように起こる。そんな中で、人口で言えば2%足らずの被差別部落ではあるが、水平社に結集した人々は、「人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、人間を勦る事が何んであるかをよく知っている」からこそ、「人間を尊敬する」ことがあらゆる差別を無くすことにつながると気づいたのではないか。まさに、「真理は少数者にあり」そんなことを、ふと思った。
紙数の関係で多くを述べることはできないが、近く、初期水平運動を真宗と三浦参玄洞の視点からまとめて、発表の機会があれば報告したいと思っている。