寄り添いでこそ出会う 見えない「不在者」(11月26日付)
「不在者」――。先般の宗教関係の学術大会の講演テーマにもなったこの概念は、実践面では深い課題を内包している。講演では「ケアされるべき現在の不在者」として「社会的弱者」が措定されたが、それを「不在者」と表現することも含めて「ケアする側」の姿勢が問われるべき問題だ。
支援者は「被支援者」とどう向き合うのか。例えば埼玉県のプロテスタント系児童養護施設の所長は、虐待されて入所してくる子供たちに親代わりとなって接する姿勢を、自らの信仰に基づいて「隣る人」と表現した。キリスト教で言う「隣り人」を動詞型にし、隣人のいない人にこちらから積極的にケアしに赴くという態度だ。
法華経の信仰から貧しい農民に寄り添った宮沢賢治が「雨ニモマケズ」で自身の理想とする立場を表現して「行ッテ看病シテヤリ」などと繰り返す「行ッテ」も、それに当たるだろう。賢治の前に農民たちは「不在」ではなく、その困窮する姿ははっきり見えていた。
災害でも例えば能登半島地震被災地で活動を継続するカトリック教会の神父は、聖書ルカによる福音書の「善きサマリア人」の逸話から「誰がその人の隣人になったと思うか」を司祭に叙されて以来の信条としていた。
「なぜそんな行いができるのか、今、はらわたから湧き出る人助けの思いを持てているか」という自省からだったが、実際の支援の現場で被災者たちの感謝の涙に接し、深い結び付きができてはじめて「この初心に返りました」と言う。
他の様々な現場の宗教者からも「どこに苦しんでいる人がいるのか、常に社会にアンテナを張っているのが僧侶の務め」などの声を聞く。九州を中心に野宿者ら生活困窮者の援助をする牧師は「『ホームレス』という人はいない。私たちは誰それさんという固有名詞を持った一人一人と付き合っています」と訴える。
当然だが「被支援者」一般は存在せず、孤立して困窮し悲しむ個々人がおり、その人に助けの手が差し伸べられた時点において「支援される人」となるのだ。
支えを必要とする人々が自ら「見えない」はずはなく、「見え」なくしているのは社会や世間の状況である。実は彼らが「不在者」なのではなく、困窮者から見れば「支援」を標榜していてもそれに気付かないままの側こそが「不在者」なのではないか。あるシンポジウムで「『世間の寺離れ』というが、現実には『寺が世間離れ』ではないか」と自省を込めて発せられた関西の住職の言葉が重い。






