「死」を考える 生命は生きようとしている(11月21日付)
自覚的に「死」を選択する「自殺」や、他者の生命を一方的に奪う「殺人」の意味について、私たちは折に触れて考えてきた。近代医療が発達してきた今、直面しているのは新たな「死」の問題である。これまで人間の力ではどうにもならなかった命の終わりを医療という生命維持の技術力によって先延ばしにすることが可能になったことで「死」の概念が変わり、ヒトが死をどう受け入れるかの意識も変わってきた。
課題の一つに「脳死」をヒトの死と認めるかどうかという問題がある。脳の死をもって個体(人間)の死とするか否かを問うもので、背景に臓器移植を容認するための判定基準を求める医療の立場からの促しがあった。また終末期に死の受容を自ら主体的に決定する「尊厳死」を社会的に容認すべきだとする考え方もある。現在議論されているのは「安楽死」の問題で、治療法がなく、耐え難い苦痛があり、死が避けられない状態にあるとき、自ら死を選択することを容認し、その要求を満たす上で医師が延命措置を中止するなどの関与を許容するというものだ。
生命は生きようとして活動している。その意味で、生命存在の正しい道は「生きる」ことにあると言える。「生きる」ことを促し「どう生きるか」を考えてきたのが宗教であり、宗教は生命の本然的意志を肯定し、生きる道筋を示してきた。また生命を「はたらき」と捉えるとき、そこには頭で考える生と死ではなく、肉体と精神とを分別せず一体のものと考える生命観が浮かび上がってくる。
精神が死を念慮したときでも、肉体は生への意志を失うわけではない。むしろ精神とは反対に生への志向を維持し続けている。そのことを、戦後派作家として知られる椎名麟三が自らの自殺未遂の体験を通して『自由の彼方で』という半生記の中で書いている。復活のキリストとの実存的邂逅によってキリスト教に入信する椎名は、絶望の淵に立って自殺を試みた時、首に荒縄を巻き付けて片足を土間の方に突き出し、もう一方の足も上がりがまちから土間の方へ離そうとするが、その片足は鳥もちでくっついたように、かまちから離れようとしなかった。
「死にたい」と頭で思い詰めても、肉体は死ぬことを拒み続ける。それが生の実相であることを椎名は知った。人が自ら死を選ぶことを止めることはできないかもしれない。しかし生命は、この世に生きることを志向して生まれ、成長し、そのはたらきが停止するまで生きようとしていることを忘れてはならないだろう。






