《「批判仏教」を総括する⑥》縁起説と無我説を巡る理解(1/2ページ)
広島大・龍谷大名誉教授 桂紹隆氏
1986年の印度学仏教学会の学術大会で、松本史朗氏が「如来蔵思想は仏教にあらず」、翌87年には袴谷憲昭氏が「『維摩経』批判」という研究発表をされ、学界に衝撃を与えた。袴谷氏は後に「仏教とは批判である」と宣言して、『本覚思想批判』や『批判仏教』を出版された。お二人の批判の矛先は、如来蔵思想と維摩経にとどまらず、華厳経などの大乗経典、唯識思想、密教思想、禅思想、本覚思想などへと広がっていった。袴谷氏は、のちに「仏教」という漢訳語は「仏語」を意味すると論じておられる。松本氏の「仏教とは無我説であり、縁起説である」という「仏教」理解も「ブッダの教えは、無我説・縁起説である」と言い換えれば、お二人の主張の核心は「維摩経、如来蔵思想等々は、仏説ではない」ということになるだろう。
お二人の主張には賛否両論が寄せられ、ついには海を渡って、アメリカ宗教学会で「批判仏教:新しい方法論的運動の問題点と反応」というパネルが開かれるに至った。私自身、2000年に広島大学で開催した日本仏教学会の学術大会で「仏教をいかに学ぶか―仏教研究の方法論的反省―」というテーマを選択したのも批判仏教を意識したものであった。同学会で、松本氏が「批判仏教の批判的考察―方法論を中心にして―」という発表をされ、袴谷氏との訣別を表明されたのには驚かされた。ただし、「批判仏教」という“運動”には「仏教研究の価値中立性、客観性を否認し、社会批判的側面をもつとともに、如来蔵思想、仏性の思想を“非仏教”として否定した点に」積極的な意味を認められた。氏は「批判の本質は、自己批判・自己否定にある」と言い、無我説の意味は「絶えず自己を否定し続けること、自己の考え、自己のあり方を批判し否定し続けること」であると主張された。如来蔵思想は無我説ではないから、仏教ではない、というかつての主張から、無我説の理解は変化している。かつては、無我説=仏説と想定されていたが、無我説=自己批判・自己否定と言われても、その批判や否定の根拠が何であるかは明らかでない。もしそれが松本氏の考える仏説であるなら、それがどのようなものか明示されなければならない。その後、駒澤短期大学に招待され「袴谷・松本両氏の仏教理解に対する若干の異議申し立て」という公開講演を行った。松本氏からは当日丁寧なレスポンスを頂き、袴谷氏からは後日「思想論争雑考」という論文でレスポンスをいただいた。後者に対して、私も「仏教における〈場所〉の概念」という論考で答えている。私自身の秘かな意図は、「論争」というと、つい感情に走りがちな我が国の学界に、「健全な議論の応酬」の一例を示したいという点にあった。
ここで、少し本質的な議論をしておきたい。それは「仏教とは何か」「何が正しい仏教か」という問題である。「仏教」とは、本来、袴谷氏が指摘したように、「仏の教え=仏語」に他ならない。釈迦牟尼ブッダは、長い布教活動の間に、様々な聴衆に対して、様々な教えを説き、教団内部に問題が生じた時、様々な規律を定めたはずである。それらはブッダ在世中に記録されることはなかったが、ブッダの入滅後、結集が行われ、アーナンダを中心に経蔵が、ウパーリを中心に律蔵がまとめられたとされる。経蔵の内容の整理・体系化の試みであるアビダルマ蔵(論蔵)も仏語だと主張する部派もあるが、常識的には仏語とは考え難い。また、現存する経蔵や律蔵のすべてがブッダの「金言」であったとも考え難い。後代の増広・付加があることは否めない。部派によって、経蔵・律蔵・アビダルマ蔵に異同があることもよく知られている。したがって、しばしば仏語であるか否かを決める基準とされる三蔵には必ずしもその資格はないのである。もちろん仏教学者たちは、何がブッダの金言であるかを追求し続けている。「スッタニパータ」の一部にブッダの教えの最古形が見られるというのが有力な説であるが、それ以外にもブッダの金言は三蔵中に含まれているに違いない。
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