月輪大師俊芿律師800年御遠忌(1/2ページ)
国際日本文化研究センター准教授 西谷功氏
平安時代後期の日本社会は、院政の開始や武士勢力の台頭、荘園制の進展によって、律令国家以来の秩序が大きく揺らぐ時代であった。中央政治の再編と地方支配の変容が進むなかで社会不安は深刻化し、治承・寿永の内乱や地震・飢饉などの災厄も相次いだ。このような現実は人々に強い危機意識をもたらし、その世相は『方丈記』にも象徴的に描かれている。こうした不安を捉える歴史認識の一つとして、末法思想が広く受容され、それは単なる教理上の区分にとどまらず、現実社会の混乱を解釈する視座として機能した。
この時期の仏教界では、国家鎮護を担ってきた顕密体制は維持されていたが、その実効性については、僧俗のあいだで次第に疑念が広く共有されていった。とりわけ、戒律や禅定といった実践の弛緩は深刻であり、多くの僧が教学研究に偏り、実践を軽視する傾向が強まった。その結果、授戒や安居といった、僧団生活を支える制度は次第に形骸化した。本来、仏教儀礼や法会は、戒律を守り修行を積んだ僧によって行われることで、その効験が保証されると考えられていたが、その前提が揺らいだため、従来の仏教が現実にどの程度の力を発揮できるのかという不安や疑問が人々のあいだに広がっていった。
こうした状況のなかで、一部の僧はこの問題を自らの課題として受け止め、仏道実践の再検討を進めた。その試みは、法然や栄西らによる新たな宗教運動へと展開し、鎌倉時代の仏教を方向づけていくことになる。
不可棄法師こと、我禅房俊芿(1166~1227)も、このような時代状況のなかで、仏教のあり方を問い直そうとした僧の一人である。彼は肥後(熊本県)に生まれ、大宰府・観世音寺で具足戒を受けて正式な僧となり、活動をはじめたが、「名利ノ学道」としての仏教のあり方に疑問を抱き、戒律を中心とする実践的仏道を志向した。しかし、当時の日本では戒律が事実上廃絶しているとの認識が広がっており、その正しい実践を回復するためには、外部に求めるほか手段はない。そこで俊芿は、戒律の実践が盛んであった中国(南宋)へ、1199年に渡航した。
南宋仏教の特徴は、戒律・禅定・知慧の三学が制度的かつ日常的に統合されている点にある。寺院は律院・禅院・教院に分かれつつも、僧たちは諸寺院を往来し、複数の分野を横断的に学び、かつ実践していた。俊芿もこの環境のなかで、律・天台・華厳・禅を修学するとともに、宋僧と同じように日課・月課・年課にもとづく規律ある生活を諸寺院で実践する。聞法や坐禅、皇帝の長命を願う祝聖、布薩、夏安居といった儀礼は、僧団生活のなかで日常的に営まれており、俊芿はそれらを身体的経験として体得していったのである。約12年にわたる参学の成果として、俊芿は「戒行ノ徳」(『不可棄法師伝』)「律徳」(『円照上人行状』)を備えた持戒持律の僧として帰国する。
帰国後、俊芿はこれらの成果を日本に移植することを志す。その拠点として、勅許を得て造営が開始されたのが、京都東山の泉涌寺である(1226年〈嘉禄2〉4月8日開山宣言)。泉涌寺は、「大宋ノ儀則」を全面的に導入した宗教空間として構想された(俊芿『泉涌寺勧縁疏』)。そこでは、住持長老を中心とする宋式の僧制が整えられ、首座・維那・知客などの寺官が分担して寺院運営にあたった(同『殿堂房寮色目』『清衆規式』)。
泉涌寺における僧団生活は、厳格な時間管理のもとに運営されている。僧衆は早朝に起床して坐禅や懺悔を行い、講義や読経、一斉の食事(僧食)、議論などを日課として繰り返した。また、月課としての布薩や祝聖、年課としての仏生会や祖師忌、さらには夏安居といった長期修行が制度的に実施される。とりわけ夏安居は、戒律実践の核心として位置づけられ、俊芿自身が南宋で修得した如法の形式にもとづいて行われた。これにより、日本において久しく失われていた戒律実践が、具体的な制度として再興されたのである。



