なぜ「宗教2世」なのか(2/2ページ)
武蔵野大名誉教授 ケネス田中氏
私の理解では、日本の寺院、神社、教会などは明確に「宗教」である。それは私個人の尺度だけではなく、日本の法律上の位置づけ、また各組織の活動内容からも裏づけられる。
まず、日本の寺院、神社、教会などは、法律的には宗教法人なのである。宗教法人法第2条により、「宗教法人」として成り立っているのである。つまり、「医療法人」や「学校法人」「社会福祉法人」ではなく、「宗教法人」なのである。「宗教」という用語がしっかりと明記されており、その理由によって、非課税となっている。
また、日本の寺院、神社、教会が実際に行っていることは、誰が見ても「宗教」という範疇に入ると言える。つまり、「宗教団体」とは一般に、「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体」として認められている。
そしてよく知られているように、「宗教」という用語は、明治時代以降「レリジョン(religion)」という英語、またはそれに相当するヨーロッパ語の日本語訳としてできたのである。その「レリジョン」を代表するのが、キリスト教であった。このキリスト教こそ上記のように、仏教と神道と同様に、現代日本では「宗教法人」なのである。
以上が示すように、自分が関わっている寺院、神社、そして教会などは、「宗教ではない」と思っている人がいれば、そこには大きな齟齬・矛盾が存在すると言わざるを得ない。
このような齟齬・矛盾こそが、現代日本において、仏教の中身である教えを学ぶことに躊躇を生じさせる雰囲気をつくっていると私は考えている。つまり、生きるための指針や人生の意味として仏教を学ぼうとする努力が、疑わしい行為として見られる傾向が存在するということである。それを示す一例を紹介しよう。
過去10年間、私は東京の伝統宗派の寺院で勉強会を行ってきた。ある時、この講座を受講している40代の男性受講生が、自分は両親にも友人にもこの講座を受講していることを話していないと言った。私は驚いて、その理由を尋ねた。彼は答えに戸惑い、明確な理由をはっきりとは言えなかった。しかし、私が理解したのは、自分から率先して仏教の教えを学んでいることで「自分に個人的な問題がある」とか「怪しい所に頭を突っ込んだ」と思われるのを避けたい、ということだった。
しかも、田舎に住む両親は、講座を主催する寺院と同じ宗派に属する門徒である。それでも親には内緒にしているということに、私は驚きを隠せなかった。さらに、東京の友人にも仏教を学んでいることを話していないという。私としては、仏教を学ぶ努力は大いに称えたいが、一方で、この受講生が周囲の目を気にするところには、先に指摘した日本社会の「宗教」への態度が反映されていると思う。もちろん、日本人の多くは伝統仏教宗派を「危ない宗教」とは考えていないであろうが、仏教の教えを率先して学ぶという行為には、いまだに躊躇が伴うようである。
実は、矛盾するようであるが、仏教に関する歴史・書物・衣・建築・儀式などの「外側」を鑑賞したり学んだりすることに対しては、引け目はなく、興味を示す人は大変多い。例えば、上野の東京国立博物館で「西本願寺」と題する展示会が2003年に行われた際、来館者の数は驚くほど多かった。それも若い世代が非常に多く、寺院の法要や仏教講座への参加者層と比べれば、明らかな違いがあった。このように、仏教の「外面」には多くの人が興味を持つが、仏教の「内面」である根幹の教えに対しては、関心が乏しいのである。
以上のように、「宗教」は怖いというイメージ、そして「宗教の内面を示す教え」を学ぶことを躊躇させる社会的な雰囲気は、残念である。宗教の本来の価値を尊重する多くの者にとって、これは確かに悲しいことである。したがって、日本の仏教・神道・キリスト教の宗教団体は、「宗教」という言葉のイメージを変えるために、より積極的な努力をすべきである。
目下の課題は、「宗教2世」という用語である。この用語の採用についても、もっと疑問を呈し、「宗教2世ではなく、カルト2世であるべき」と訴えることが望まれる。それは、仏教・神道・キリスト教が、法律的にも内容的にも「宗教」であるからである。
注:『中外日報』2022年8月26日号 論「『宗教2世』問題を考える」天理大おやさと研究所教授 金子昭、2025年6月25日号~8月8日号 中外日報社涙骨賞奨励賞受賞論文「『宗教2世』をめぐる用語と意味の変遷」東京科学大環境・社会理工学院博士後期課程 道蔦汐里






