「ホモ・ミューチュアル」を提唱(2/2ページ)
ジャーナリスト 北村敏泰氏
そして、それは何も宗教者の特権ではなく、特に信仰を持たない数多くの人々も「ホモ・ミューチュアル」として根本的には同じことが言える。
さらに「ミューチュアル」の深いところには、相互の目覚め、気付きの相互性という面もある。
困窮する人に対し、「信仰の力で救ってあげる」とか「救って信仰に導く」といった〝上から〟の姿勢ではなく、「最も小さくされ困っている人たちの側にこそ神の力が宿る」「人助けするために神は人間を作られた」「抑圧された人々こそ自分を導いてくれる先生」といった信仰信念に基づいて行いを実践する宗教者も多い。
しかし当然ながら、支援される側の人たちが「自分たちにこそ力が宿る」「自分たちが先生だ」と考えているわけではない。重要なのは「支援する側」こそがそういう関係性に気付くことだ。能登半島、そして熊本地震の被災地に炊き出しに通うある新宗教の教師は、支援を通して「被災された皆さんに、その生き方に、しっかり学ばせていただく」と話していた。
加えてその「気付き」によって、自らが至らない存在であること、力のない「凡夫」であると自覚することで、自身が〝上〟ではなく、相手と同じ立場、同じ地平にいることを再確認することができる。
そして例えば、救いようのない困難を抱えて嘆く人の前で、無力さをさらけ出すという寄り添いができる。それは、自己を飾らずに信仰に基づいて利他の行為をすることができる宗教者の特質でもある。
東日本大震災の被災地では、家族全員、仕事も家をも失った被災者の前で、支援の牧師は何もできず傍で共に涙を流すしかなかった。だがその被災者は、「この人もこんな姿で泣きながらここにいるのだから、自分も生きていていい」と気付きを得、死を考えるほどの絶望から踏み出すことができた。
それが「自分は、この人よりましだ」という暗い優越感と決定的に異なるのは、「お互いさま」の気付きがあるから。この牧師も「聖書が今までと違って生きたものとして読めた」という。それが「ホモ・ミューチュアル」としての働きである。
このような「ミューチュアル」の「気付きの相互性」もまた、宗教者のみならず一般の支援者、福祉や医療など様々なケア者にも当てはまる。
前述の、力を与えてくれる「神」や「仏」を「何か人知を超えた存在」「大事な本質」と読み替えれば、あるいは信仰が行動を導くという意味になぞらえて、その人の行動指針、背後で支える「スーパーバイザー」と置き換えれば構造は同じだ。
この認識は、ケアをめぐる研究会でも共有された。福祉現場や医療機関、法的サポートなどで日々、被支援者たちに接するケアラーたちは、人によって事情が異なる相手の立場に立つことをまず目指す。相手が認知症の高齢者なら介護職は、当人が閉じこもる世界から無理に引っ張り出すのではなく、「その人の世界にお邪魔する」という。
ともに同じ地平に立つ人間同士であり、そして自分と相手とに共通する「いのち」という「大事な本質」がお互いさまであり、それを行動指針とすべきことに気付くのだ。
実はここに、宗教者の寄り添いの「行い」が、専門用語の言葉による教義の伝達を超えて、非信仰者の学びの「モデル」となり、本質が伝わるカギもあると言えよう。即ち、「『人はお互い助け合うもの。人には親切にしなさい』と、経典に書いてある」と口で説明するより、実際に互いに助け合い、親切にすることである。
ここまでの論述からは、「ホモ・ミューチュアル」が人間性善説に基づくと受け取られるかもしれない。現実社会でも人間同士の対立、一方的抑圧や差別、排除が横行し、しいては国家による戦争が広がる実態からすれば、楽観的に見えるかもしれない。
しかし多くの宗教は、究極的には人間は善の方向に向かう、あるいは「仏性」のように善をなす資質を内包していると見るのではないか。そして熊本地震の被災地を見ても、宗教ではなくとも多くの人々は悲惨な現実を少しでも変革するために、善を志向しているはずである。
重要なのは既述の通り、「ホモ・ミューチュアル」で示した考え方を行動理念とすること。つまり論議しながらも、現場にいる固有名詞を持った具体的ケアを必要とする人の存在をリアルに感じ、その困窮を生じる社会構造に思いを致し、そして実際にそこへ行くことである。




