「ホモ・ミューチュアル」を提唱(1/2ページ)
ジャーナリスト 北村敏泰氏
先般の2度目の熊本地震も含めた災害被災者支援、貧困問題や福祉、医療などの現場でのケアや寄り添いを幅広く考察し、あるいは実際の現場で働く宗教者たちに接すると、様々な局面での人と人との支え合い、相互関係には通底する「原理」があることが見えてくる。
そこに、「そもそも人間とは本来的に互いに世話し、世話されて生きていくものだ。だからそこにリスペクト・尊敬の関係性があるべきだ」ということが浮かび上がる。
それを概念化し「ホモ・ミューチュアル(homo mutual)」という語をここに提唱する。
ある研究会で既に説明しているが、「homo」はラテン語で「人間」。「mutual」は、「相互に」「お互い様」という意味の英語だ。これは、「ホモ・サピエンス」(知恵のある存在としての人間)や「ホモ・エコノミクス」(経済的人間)あるいは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人間)といった人間の根源的定義に倣ったオリジナルの造語である。
人類学・哲学用語上の「ホモ・サピエンス」のようにラテン語表現だと「homo mutua」となるが、実際の支援の現場ではそれを言葉に表明するまでもなく指針として実践されている。
例えば、国内や世界各地で頻発する災害の現場では、過去の被災地から支援に訪れる人や物資の援助も多い。「前に助けてもらったから、せめてもの恩返し」と、国際的な人と人との結びつきにも発展している。
筆者も、東日本大震災や能登半島地震の被災地で宗教者らとがれき撤去や食糧支援のボランティア活動をした際、自宅を失って避難所や仮設住宅で生活する人たちから逆に世話になった。炎天下の作業では断水の中で飲料を運んで下さり、炊き出しの場では慣れない調理を教えていただいた。「困ったときはお互いさま」だ。
災害時のこのような利他行動を社会学では「災害ユートピア」と呼ぶが、それは実は、本来的に人間に備わったものが非常時に発揮されているのだ。
「恩返し」ではなくとも、多様な現場で「お互いさま」の助け合いは多い。災害死や自死、難病死などの遺族のグリーフケアの会や、多様な悩みを抱える家族介護者同士が相談し合う「分かち合い」の集まりもそれだ。
高齢の親を介護して疲弊の底にある人が誰にも話せなかったしんどさを吐露すると、似た事情を抱えた人が深く共感する。「うちの場合は」と助言も出、話はそうして生きていくことの意味にまで深まる。苦悩や悲嘆を共有すること、「共苦」も「ミューチュアル」の内実である。
日常生活の中でも、この「困ったときはお互いさま」という考え方は昔からごく当たり前に受け入れられているし、そもそも「困った非常時」でなくとも、社会生活の中にも相互扶助、相互支援の仕組みはたくさんある。
そしてそこに、筆者が長く取材してきた宗教者たちが信仰や教えを背景にして支援に関わっていることを想起すれば分かりやすいが、多くの宗教には「黄金律」と呼ばれる精神が共通する。即ち、「他者にしてもらいたいことをあなたも他者にしなさい」(聖書『マタイによる福音書』)という概念だ。
これは、ヒンドゥー教の「マハーバーラタ」にも、ユダヤ教の経典にも論語にもある。イスラームの「クルアーン」にも。もちろん仏教諸宗派の経典・教義にも様々な言葉で述べられるし、新宗教の教えにも出てくる。そして諸宗教に共通するこの黄金律は、本来は「言説」ではなく行動指針であるはずだ。
常に困っている人々の側にいる宗教者は、このような教えに基づく行動指針が身に染みついているからこそ、目の前に支えが必要な人がおれば、あれこれ説明や講釈などによって言語化することなく、即座に体を動かし手を差し伸べる。支援をする際、行いより先にまず相手に説教をするなら、そこには相互の関係性は生まれないであろう。




