信行道場の経験から 多様な修行者対応の意義
北海道大教授 櫻井義秀氏
私は4月15日から5月19日まで35日間にわたり、令和5年度第1期日蓮宗信行道場の行を成満した。得度から約2年半で日蓮宗教師になった。
入場の条件は、僧道林、研修と普通試験、読経試験を受けて合格していることであり、信行道場では僧侶として必要な教学と宗定法要式の基礎を習得し、信心の錬成が目指される。
今回の道場には、62歳で最年長の私を含む数人の中高年者と20代、30代の若者たち40人余りが入場した。そして、信行道場では初めて1人の車椅子利用者が参加し、成満して道場生代表として修了証を受領したのである。
朝4時に始まる水行から夜9時に終わる瞑想まで一切自由になる時間はなく、生理的時間から課業や法要の準備に必要な時間を削り出していく道場の日常は、若者でも厳しく、中高年者は身体的にも精神的にもギリギリのところで耐えた。
車椅子の同行者は、正座・起立などの所作を除き、読経・諸役・作務もできるやり方を工夫した。作務衣から道服、居士衣への着替えもほとんど同じスピードだった。道場の階段には昇降機が取り付けられたが、車椅子本体は道場生が上げ下げし、行脚では数人が交代で坂道の介添えにまわる。バリアフリーの個室には同じ班の仲間が交代で泊まりに行った。
様々な志向性や身体的条件を有する修行者を受け入れる道場や僧堂での修行にはリスクが伴う。①修行者にはケガや病気、管理者には配慮・責任が増大する②支援に自分の修行の時間が割かれる③一律の指導・訓育で済まなくなるだろう。僧堂や道場において多様な修行者を受け入れる困難は想像に難くない。
しかしながら、現実世界では身体的にも精神的にも強靱で覚悟を持った人々ばかりではない。むしろ、弱い人たちが多数派であり、僧侶はその支援にまわりながら自他の心の安寧や仏国土の建設を誓願しているはずである。だからこそ、強い僧侶を鍛え上げるのだという論理には一理あるものの、多様な人々を是とし、できるものができないものの支援に回る感覚をどこで涵養していくのかも重要な論点ではないだろうか。
道場清規には「同心相い敬礼し同行互いに扶助す」とある。読経や声明、法要の諸役に慣れた僧堂経験者が、できないものを引き上げ、私のように素早く走れないものの背中を実際に押してくれる。業績を競い合うアカデミズムの世界に40年近く身を置いてきた私には新鮮な驚きだった。倫理やモラルを声高に言わずとも、自然に身体がそのように動くような空気ができあがってくるのが道場のマジックである。
檀信徒のみならず寺院後継者が自然減少する時代である。多様な修行者を受け入れ、そのなかで創意工夫して共生と協働を会得するような修行の形態や道場が生まれてこなければ、一世代経たないうちに日本仏教界は担い手を半減させるのではないか。伝統と威儀を守りつつ、新たな挑戦とイノベーションを起こしていく時代を感じて道場をあとにした。