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私という存在と「時」― 死は自身にとっては虚(1/2ページ)

時宗教学研究所研究員、一向寺住職、医学博士 峯崎賢亮氏

2014年5月21日
みねざき・けんりょう氏=1956年生まれ。東海大医学部卒業。同大学院博士課程修了。医学博士。総合内科専門医。循環器専門医。時宗一向寺(茨城県古河市)住職。時宗教学研究所研究員。2008年、論文「死を覚悟した人達の為の浄土門の教え」で第4回涙骨賞最優秀賞を受賞。著書に『四十歳からの南無阿弥陀仏』(文芸社)がある。

私という存在を構成している「時」は、すべて実の「時」であり表も裏もないが、人生という「時」の流れの中で虚、表、裏が生じる。

(1)実、虚について

実の「時」とは何か。谷川俊太郎氏は「自分が誰かってことは、行為のうちにしか現れてこないような気がする」と述べているが、今まさに行っている行為、つまり実体験の「時」こそが、実の「時」である。自己と他者の差は、それぞれの存在を構成している実体験の「時」の差といえる。しかも私という存在を構成している実の「時」同士は独立し、前後際断している。

では虚とは何か。虚とは実体験以外の、例えば想像、認識、理解などである。想像と実際の体験では異なることもあるし、実体験は変更できないが、認識や理解はその都度状況において変更される可能性がある。つまり虚は、不確実さを伴う。

例えば、「見る」という行為は間違いなく実体験の「時」である。しかし、見えたものを石と認識した場合、この認識は虚である。目前にはある物体が確かに存在するし、それにつまずけば転ぶという点で実体がある。しかしそれを私が石と認識した時点で、石という言葉が持つ固有のイメージがつきまとう。また音声や画像として認識したものは、興味、感情などによって、誇大化、矮小化され、ときに無視されるという点で虚である。つまり森羅万象、それぞれは実体をもって存在するが、それに対して我々が意識を向け、私の五感を使って私の器世間の中に取り込んだ時点で、それらは虚となる。すべての物には実体がないといわれる所以は、目前にある物体自体に実体がないのではなく、それに意識を向けて私の器世間の中に取り込み、そしてそれが何かを認識しようとするから実体が失われるのである。また悲しい、嬉しいといった感情には実体がないので虚だが、実際に泣く、笑うという行為は実体験である。

言語化された情報、画像化された情報を見る、聞くという体験は実の「時」であっても、情報自体は不確実さを伴うという点で虚である。しかしその虚を実と「思い込む」ことで受け入れて、次の実行動を起こしている。この際、過去に得た知識、成功体験や失敗体験の「時」と現状を勘案して、真偽を判定し、真と判定した情報のみを実と思い込み、次の実行動を起こしている。

未来の「時」自体は確かな実の「時」として私という存在に具わっているが、思い描く未来は虚である。しかも、期待や夢といった比較的実現性の低い未来であっても、その未来は、自らの過去の体験から想定された結果であるので、真偽判定をすることもなく実であると思い込み、必死でつらい今に耐えている。思い描いていた未来が思い通り実現すれば、その未来は虚から実の「時」となって今に訪れるが、思い通りにならなければ、未来という虚が虚のまま消え去ることになる。実だと思い込むことで頑張ることのできた未来という虚が、虚のまま通り過ぎた時、「もうだめだ」という絶望感を味わう。確かにあの時点で体験した過去の「時」もまた、実の「時」として私に具わっているにしても、甦ってくる過去は、実際体験した時代と異なる感情、異なる結果をもたらすという点では虚である。

死はあくまでも自然の摂理としての理解である以上、虚である。実際に私に死が訪れたときには、体験そのものが終了するので、体験の「時」すらない。だから、死なれるという体験のみが可能である。死なれるという体験を通じて自らの死を想定し、その虚を実と理性で受け入れる(思い込む)ことにより、遺言書を用意するといった、新たなる実の行動に結びつく。

信心もまた虚である。ただ、称名念仏という確かな行為を相続するためには信心という虚が必要となる。また私達が思い描く仏ですら虚である。しかし大切なあなたが仏になったと思い込むことで、あなたの死を受け入れて、生きるための実行動を生み出す。

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