東洋的現象学としての井筒「東洋哲学」(1/2ページ)
天理大名誉教授 澤井義次氏
言語哲学・イスラーム哲学・東洋哲学の研究において、世界的によく知られる井筒俊彦(1914~1993)は、晩年、伝統的な東洋思想テクストを、哲学的意味論の視点から読みなおすことで、独自の「東洋哲学」を構築しようと試みた。遠藤周作との対談「文学と思想の深層」(1985年)のなかで、井筒は「方法論的柔軟性をもった言語分節理論を東洋的現象学として展開してみたい」とも語っている。
井筒の哲学的思惟は哲学的意味論を特徴としているが、具体的には、言語的意味分節理論である。こうした意味論的な考え方は、初期の代表的著書『神秘哲学』や『言語と呪術』(英文著書)をはじめ、晩年の主著『意識と本質』さらに遺著『意識の形而上学』に至るまで、全ての著作を貫いている。このことについては、昨秋に刊行した拙著『井筒俊彦 東洋哲学の深層構造』(慶應義塾大学出版会、2024年)で詳論しているが、井筒哲学の全貌を理解するうえで重要な点である。
井筒は青年時代以降、フッサール、ハイデッガーさらにメルロ=ポンティなどの現象学にも学的関心を抱いていた。ある意味で、井筒の「東洋哲学」構築の試みは「東洋的現象学」とも呼ぶべきものだろう。実際、彼は東洋哲学の「本質」を捉える意味論的視座を創り出すうえで、しばしば現象学的視座にも言及している。
井筒は哲学的思惟の根源に、自己と対象が一体となった形而上的実在体験の存在を認めている。それは「コトバ以前」、すなわち言語による意味分節以前、あるいは絶対無分節状態を意味する。それは思想構造論的に、西田幾多郎が言う「純粋経験」とも呼応する。井筒は「東洋的無」の雰囲気のなかで、幼少の頃から、父親の薫陶を受けて育ち、禅的体験も実践していた。彼のいう絶対無分節の思想は、東洋の諸伝統ごとに微妙に異なるが、「観照的生」の体験に底礎されて成立し得ると考えていた。
井筒「東洋哲学」の方法論的視座を成す哲学的意味論は、現象学者の新田義弘(『思惟の道としての現象学』以文社)も指摘するように、意識・存在の深層構造に関する現象学的な分析であると言えるだろう。井筒の哲学的思惟は、意識・存在の深層における絶対無分節の「ヌーメン的」状態、すなわち「存在のゼロ・ポイント」即「意識のゼロ・ポイント」を起点として、「絶対未分節的一者」の意味分節化という思想構造を示している。
この「絶対未分節的一者」とは一切のコトバ、名を超えた無名無相の「一者」である。それが意味分節プロセスをとおして自己分節することで、存在世界が構成される。こうした井筒の意味論的地平は、言語によって意味分節される意識・存在の多元的・重層的な意味構造を示す。
井筒によれば、フッサール現象学の出発点は、その標語である「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst)が示唆するように、私たちの意識経験の現実に与えられるままの事物事象の「本質」を探究することにあった。フッサールの「本質直観」とは、井筒の言葉を援用すれば、「もの自体が前言語的に語ろうとしている何か」を「前言語分節的意識で受けとめて、そこにありありと現前させること」(『意識と本質』)である。ところが、井筒の意味論的視座から捉えなおすと、言語による意味分節機能は意外に執拗で根深く、私たちの深層意識の構造までも規定している。表層意識に「本質」がいまだ現れていないとしても、それだけで「コトバ以前」と言うことはできない。