英仏の安楽死法案 人間の尊厳と宗教者の役割(8月1日付)
先般、フランス、イギリスの下院で相次いで安楽死法案が可決された。ここでいう安楽死は、医師が患者に致死薬を直接処方する積極的安楽死ではなく、患者が処方された致死薬を自ら摂取するという医師ほう助自殺のことである(例外的に患者が摂取できない場合、医師が致死薬を投与できる)。日本ではこのどちらも法律により禁止されている。ただし、延命治療を中止して死期を早める消極的安楽死、つまり尊厳死は、厚生労働省のガイドラインにより容認されている。
それ故、法案可決の影響が直ちに日本で安楽死を認める方向へと直接向かわせることはないだろう。日本では、自ら強く安楽死を求めるほど、死の自己決定への主張が社会的合意を得ていないからである。むしろ懸念されるのは、この自己決定が周囲の圧力によって意識的・無意識的に強要される恐れの方である。危ぶまれるのは、そうした方向に世論が流されていきはしないかということだ。
尊厳死が、消極的安楽死として分類されるのには理由がある。尊厳死においても、自分が判断できなくなった場合に備えて、延命治療を受けない意思を示すことが認められているからである。現在でも、過度の延命治療を控えることについてはある程度合意されており、その傾向は今後も一層強まる可能性がある。安楽死の適用範囲が広がれば、高齢者や重度障害者など社会的に弱い立場の人々が、家庭的・経済的理由や医療費増大という社会的圧力から、死の自己決定を強いられるかもしれない。すでに尊厳死の法制化を巡る議論の中ですら、そうした懸念が示されている。
どの宗教においても人間の命は神仏のたまものであると考える。それが人間の尊厳を支える宗教思想の基本である。そしてこの思想こそ行き過ぎた死の自己決定の容認に対する大きな歯止めになっているのである。「死にたい」という末期患者の言葉には「死ぬほどつらい」という思いが含まれている。この思いの中には、単に肉体的苦痛だけでなく心や魂の苦しみも大きな比重を占めている。そこに求められるのが、こうした苦しみに寄り添い、応答していくケアであり、宗教者による臨床現場での取り組みの意義もここに存する。
さらに、宗教者にあっては、人間の尊厳という基本思想からいま一度、終末期医療の在り方を考え、それぞれの宗教の立場から、また日本の宗教界全体として、安楽死・尊厳死問題に対し、社会に向けて提言を行うことが期待されるのである。