臆病な布教
布教伝道に取り組む上で、どのような言葉を発信するのかは永遠の課題であろう。どんな表現が相手に響くのかは予想し難いし、同じ言葉でも発信する人によって説得力は異なる◆そのような中でも一般の人向けに平易な表現や万人受けするような言葉を選ぶやり方はセオリーの一つだ。もっとも、そこに現れがちな“ライトな言葉”はプロの宗教者や篤信の信者からはすこぶる評判が悪いのが常である。ライトなのだから玄人受けはしないに決まっている◆それはともかく、ライトであることは布教の裾野を広げるきっかけを多く与える半面、そのほとんどが薄い関わりで終わってしまうリスクも高い。軽い言葉には軽い力しか宿らないからだ◆ただ、問題は「一般の人」という想定の方だろう。それを「宗教にそれほど関心のない人」とするなら入門的位置付けでライトにも積極的な意味が見いだせるだろう。しかし「救いや解決を本気で求めている人」には響きはしない◆恐らく伝統教団の多くは後者の層をあまり想定していない。その結果「分かりやすく」に過剰にとらわれ、宗義の根幹をなす固有の用語や「毒にもなり得る強い言葉」を発信することに臆病になっている。だが、そのような言葉こそを求めている人は大勢いる。「お寺は風景でしかなかった」というオウム真理教の信者の有名な話はそのような意味でも味わわれよう。(池田圭)