《「批判仏教」を総括する⑤》吉蔵と如来蔵思想批判(1/2ページ)
駒澤大仏教学部教授 奥野光賢氏
私に要請された課題は、「『批判仏教』再考 三論学の立場から」であったが、にわかに「再考」する用意はないので、三論学(三論教学)の大成者である吉蔵(549~623)と如来蔵思想批判に関するこれまでの大まかな研究状況を私なりに点描し、もってその責を果たしたい。
二、批判的研究の萌芽中観思想研究に一時代を画した梶山雄一博士をして「天才」と言わしめた(講座・大乗仏教第7巻『中観思想』春秋社、1982年11月)松本史朗氏が駒澤大学仏教学部に着任されたのは、同書が刊行された同じ年の4月のことであった。松本氏は同年11月には、「チベットの中観思想―特に離辺中観説を中心にして―」を発表するが(『東洋学術研究』第21巻第2号。同論は加筆改題されて『チベット仏教哲学』大蔵出版、97年の第6章に「離辺中観説について」として再録された)、同論文を読まれた伊藤隆寿氏は即座に吉蔵の思想と離辺中観説の類似点を指摘したという(松本『縁起と空』大蔵出版、89年。84頁の注30を参照)。私はのちに展開されることになる吉蔵教学(三論教学)と如来蔵思想に関する批判的研究の萌芽はここにあったと思う。
松本氏が86年6月14日に東京大学で開催された日本印度学仏教学会学術大会において、“dhātu-vāda”(基体説)という作業仮説的用語を導入して、「如来蔵思想は仏教にあらず」という衝撃的な発表をおこなったことは周知の通りである。いま私見にしたがって、その発表の重要と思う点を摘録すれば、次のようになる(頁数は学会誌への発表論文が再録された前掲『縁起と空』による)。①「“dhātu-vāda”の構造を要約すれば、それは『単一なる実在である基体(dhātu)が、多元的なdharmaを生じる』という説ということになる。簡単に『発生論的一元論』とか『根源実在論』とか呼んでもよいであろう」(6頁)、②「如来蔵思想が平等思想であるというのも誤りで、私はむしろ差別思想だと考える」(3頁)。
「仏教」を深信因果としての“宗教的時間”を説く「縁起説」と見る松本氏からすれば、“dhātu-vāda”(基体説)を本質とする如来蔵思想は、縁起説とは矛盾するものであり、縁起説によって否定されるべき対象であるとされたのである。さらに松本氏は①に関係することとして、③「如来蔵思想(dhātu-vāda)と老子の哲学の間には、著しい類似がある。それは一言で言って、“根源”の思想である」とも述べている(『縁起と空』79頁、注11)。この点をさらに徹底させたのが次に述べる伊藤隆寿氏であった。
袴谷憲昭氏による「本覚思想批判」や松本氏の「如来蔵思想批判」を真摯に受けとめ、熟考の末これを中国仏教研究に応用した伊藤氏は、「道家思想の特質を『道・理の哲学』と捉え、仏教を道・理の哲学を基盤として理解解釈することを『格義』とし、そのような格義的理解による仏教を、すべて『格義仏教』とする新しい作業仮説的規定を導入」して中国仏教の見直しに着手した(以上、『中国仏教の批判的研究』大蔵出版、92年の巻頭を要約)。その結果、従来は「格義仏教」とは、中国への仏教伝来から魏晋期に見られた一時的な現象であるとされてきたが、実際には鳩摩羅什以後禅宗の人々に至るまで、中国仏教はすべて「格義仏教」から脱却してはおらず、中国仏教の研究は論理的側面に限定すると、批判的研究によってのみ意義があると主張されたのである(前掲書の巻頭および「序にかえて」を要約)。伊藤氏の研究に対しては、吉津宜英氏が「中国仏教研究の一動向―『批判的研究』について―」(『仏教学』第36号、94年)において論評しているほか、同氏の「仏教思想史論」(『駒澤大学仏教学部論集』第24号、93年)も参照すべき論考と言える。
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