《「批判仏教」を総括する③》仏教文学に基づく「批判仏教」(1/2ページ)
元駒澤大教授 袴谷憲昭氏
私は「批判仏教」を主張し続け直近では『律蔵研究序説』(私家版、2024年、以下『律研序』と略す)を刊行しているものの、現実は「批判仏教」に対峙する「場所仏教」の方が益々威を振るっているように私には思われる。従って、本稿はその現況に焦点を当てた上での論述となろう。
先ず「批判仏教」は「仏教文学(Buddhist literature、仏教文献)」に基づいて展開されなければならないが、現状ではこの姿勢が極度に落ち込んでいるように見受けられる。「仏教(buddha-vacana、仏の言葉)」とは、「三蔵」という「仏教文学」に他ならないが、「三蔵」の重視度には軽重の違いこそあれ、「三蔵」を無視した仏教教団なぞありはしない。いずれの仏教教団も、経と論の二蔵に示される「哲学」「思想」を踏まえながら、律蔵に反映されるような「生活」「習慣」と取り組み、その長い解釈の歴史の中で更に大乗経典さえ含む大部の「仏教文学」を形成してきた(『律研序』、136―167頁参照)。その代表が「南伝」ではパーリの上座部、「北伝」では説一切有部に他ならない。
かかる展開の中で、仏教教団も集団である以上比丘たちが互いに群(vagga, varga)を作って諍いを起すことも多かったようであるが、しかし、諍いがあれば、その決着は基本的に、群の頭数の多さによるのではなく、「三蔵」の「学習」を究めたことに基づく議論の正しさによらなければならなかったのである(『律研序』、168―199頁参照)。
ところが、かかる決着が仏教の正しいあり方だと思っていた私の眼前に突然びっくりするような記事が飛び込んできた。戦後民主主義は神話だと語る山折哲雄の今年6月10日の『毎日新聞』の記事である。話の途中で、山折はアインシュタインとフロイトの往復書簡『ひとはなぜ戦争をするのか(Warum Krieg?)』(Paris,1932)にも触れ、戦争を止めるにはフロイトの「軍事力に基づく平和」に帰着せざるを得ないような考えでは駄目で、結論的には、アヒンサーのガンジーの思想、更には西洋の思想とは違う日本の神仏習合のような多元的な思想でなければならないと仰っている。しかし、この件に関し、私は「無根信」に関する論考(『律研序』「序論」第16論文の元論文)の註50で、アインシュタインが平和のためには各国の話し合いによる主権の一部の「無条件放棄(der bedingungslose Verzicht)」しか道はないと主張されていることこそ仏教に近いと思い賛意を表していたのである。
しかるに、山折の仰る神仏習合の多元論は、仏教ではありえず、アニミズム讃美の梅原猛の多元論に同化する他はあるまい。そして、多元論のヒンドゥー教がカシュミーラでパキスタンと争っていることも忘れてはならないのである。
ところで、戦争に関する「仏教文学」で有名なものには、仏教教団のどの部派にも伝承されていたと思われる「シャカ族滅亡譚」がある。この話の最も後代の成立と考えられるのが説一切有部の『律雑事』分節ii-4(『律研序』、307頁参照)に含まれるものであるが、その極小の要旨については、『律研序』「序論」第19論文の元論文、116―117頁と註45を参照されたい。この話の有部的な特徴は、「見諦」の人は殺人の戦争には加わらないこと、業の鉄則は世尊といえども変更できないこと、という二点に絞ることができ、それがためにシャカ族は滅んだとされるのであるが、ここに殺人と業に関する有部の見解が仄見えているにせよ、本話が「生活」「習慣」に関る律蔵のものである以上、この見解はやはり有部の「哲学」「思想」である『大毘婆沙論』を前後する経論を踏まえながら批判的に検討されなければならず、それは今でもそうでなければならないと思う。
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