各地で出没するクマ 「殺生」に供養の心を(11月7日付)
全国各地でクマが出没し、人が襲われるケースが続出している。死者数も今年度は10月末までに12人に上り、過去最悪だった2023年度の6人の倍となった。緊急避難的措置として、人間の生活圏に侵入したクマは殺さざるを得ない状況に至っている。9月には市町村長の判断で発砲できる「緊急銃猟」も可能となった。
クマによる人的被害が多発するようになった直接的な理由は、今夏の猛暑により餌となる木の実が不足して、クマが人間の生活圏まで下りてきたからだと言われる。しかしその背景にあるのは、山間部での過疎化や高齢化により人間の活動が低下し、クマが人に対する警戒心を解いてきていること、また個体数も増加して生息圏が広がったことだ。緩衝地帯でもある里山は手入れが行き届かず、動物たちが人里や市街地に接近してきた。そのためクマだけではなく、シカやイノシシなどによる食害や人的被害も増加している。
夏の猛暑の遠因が地球温暖化の影響によるものだとすれば、結局のところ、人類の所業の結果が巡り巡ってクマの出没として現れているとも言える。だが、これに対する対策もちぐはぐなところがある。太陽光発電がエコロジー的だとして、山林を切り開いてソーラーパネルを敷き詰め、かえって自然の生態系を破壊することなどがまさにそうだろう。クマ出没の原因にはメガソーラーの急増があるという指摘もある。
人里に現れたクマに対しては、人命を守るための緊急銃猟はやむを得ない。ただ宗教者、仏教者としては、これが駆除や殺処分だと言い切ってしまうには抵抗を感じる。自然界の餌が不足して、クマが人間の生活圏に現れたが故に、やむを得ず「殺生」を行うのである。ここに人とクマとの生存を巡る修羅場が生じる。
そのような意味で、宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」は、そうした人とクマの関係を描いた寓話として読み直すことができる。猟師の小十郎は殺したクマに向かって「てめえも熊に生まれたが因果ならおれもこんな商売が因果だ」と言う。彼は憎くてクマを殺しているのでなければ、熊も憎くて人間を襲っているのではない。
殺生は罪であるが、不殺生戒を破らなければ人は生きていけない。それが、この世の現実である。クマに猟銃を向けることも、人間が生きるために犯さなければならない罪の行為である。仏教の立場からすれば、クマに対する人の罪業を振り返り、またクマを弔う供養の心を涵養することが大切である。





