《「批判仏教」を総括する③》仏教文学に基づく「批判仏教」(2/2ページ)
元駒澤大教授 袴谷憲昭氏
しかるに道元は、異なった視点からではあるが、業の問題を『大毘婆沙論』などに基づきながら生涯に亘り「学習」して仏教の真偽を追究すべきであると晩年に主張したのである。しかし、アニミズム讃美の人類学者である岩田慶治は、『正法眼蔵』九十五巻のどこを取っても同じとばかりにアニミズムの観点から道元を高く評価したのであるが、そこには「仏教文学」に基づいて仏教の真偽を決着しなければならないという姿勢がどこにも認められない。それゆえ私は、1989年10月発行のある批判論稿の註43でその姿勢に杞憂を表明したのであるが、昨年の岩波の『思想』9月号の道元特集では、その特集の実質的企画者でもある何燕生が、道元評価の観点から道元のアニミズム解釈者たる岩田を称讃し、企画全体もそれに同調している風が見られたのは残念でならない。この特集において道元が米欧に広まっているのはその執筆陣からしても明白であるが、海外にアニミズムが浸透しても困るのである。だが、土着的な土壌の中でじわじわと「円形記号」的に拡がっていく「場所仏教」の力には根強いものがある。私はその「場所仏教」を、「批判仏教」を「垂線記号」的「伽藍」に擬えたのに対比して、「帝網」に喩えてもいる(『律研序』「序論」第10論文参照)。かかる「伽藍」仏教対「帝網」仏教の対比から、私は当然建物にも興味を持っている。
そんなわけで、カミュの『異邦人』の「このとき、夜のはずれで、サイレンが鳴った(À ce moment, et à la limite de la nuit, des sirènes ont hurlé)」を書名とした原広司と吉見俊哉の対談集が出たのを知った時点で、私は直にそれを買い求めて読んでみた。原の先生筋には建築観は対立することになるものの丹下健三がおり、丹下の東大建築学科のほぼ同期には詩人の立原道造や駒沢オリンピック公園の建造に携わった高山英華などがいる。対談では、高山には言及のあるものの立原には触れられていないが、私の見る限り、原は建築観では立原や高山の筋を継承しているように見受けられる。そして、鴨長明やウォールデン湖畔に小屋を建てたアメリカの詩人ソローこそ真の建築家だと見做す原の建築観は、基本的に集落にあるようであるが、その語られる「哲学」には、「いくつもの集落が同時に光彩を放つ地平では、言葉こそ光を浴びるはず」とか、「部分における関係の把握から」「より大きな集合における抽象へと向かってゆくべき」「上向的構成」とかいう言説から、「円形記号」的世界観より「垂線記号」的世界観へ向って行こうとする志向が感じられる。
しかし、師説を受け止めている吉見俊哉の方には、「哲学」なき社会学に軸足を置いているせいか、レヴィ=ストロースの『野生の思考』止まりの集落に沈み込むような意見しか述べられていないと感じられるので、私とすれば残念である。一方私は、「垂線記号」的「伽藍」仏教の方を重視しているので、丹下健三側かとも見られかねないが、私は完全に立原道造側であることを白状しておきたい。
ただし、炊き出しに集まる貧しき人々を拒絶するかのごとく屹立する丹下設計の東京都庁舎も、確かに「垂線記号」的「伽藍」仏教のイメージの一端であることは認めておかなければなるまい。というのも、群の数の力によることのない、多様な個々人の自由な言葉だけによる議論を通しての真偽決着あってこその「垂線記号」的「伽藍」仏教であるが、それが機能せず上からの規制のみの硬直した「伽藍」になってしまえば、それは都庁舎のイメージを拭いきれないからである。
力を排除し切った上での議論でなければ、「外交は本質的に戦争の脅し以外のなにものでもない(diplomacy is in essence nothing but the threat of war)」と、ラッセルは第一次世界大戦終了前年に出た著書の中で言っている。またラッセルは、その同じ著書で、戦争の原因として「関税」と「劣等人種からの搾取」と「権力と支配の自慢」との三つを挙げている(『律研序』、241頁参照)が、今やその三つが第一次世界大戦以前の議論なき「未学習」の状態に戻ったかのように横行している。
「批判仏教」は、都庁舎のイメージのごときでなければ、言葉だけの議論による真偽決着を重んじるので、右のラッセルや第二次世界大戦前のアインシュタインの主張に近く、アニミスティクな「土着思想」の「場所仏教」に居座ることなく、「仏教文学」や「外来思想」から虚心に「学習」し真偽決着の追究に生涯を掛けて向って行くことができると思うのである。(2025年6月24日)
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拙書『律研序』は私家版ゆえ、市販ルートに乗っておらず、求め難いと思われるかもしれないが、駒澤大学への200部を含め、仏教関係の施設を擁する私公国立の研究機関や研究者へ、計900部程配布されているので、然るべき研究機関や研究者に問い合わせれば必ず求めることができると思う。私家版ではあるものの、是非とも参照されることを願っている。
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