ムスリムとの共生モデルを考える 「宗教的寛容」とは何か
東京大教授 伊達聖伸氏
ケベックの多様性と民主主義に関する学際的研究センター(CRIDAQ)の招聘を受け、この9月はカナダのケベック州で過ごしている。折しも、8月28日に移民担当大臣が、通りでの礼拝を禁止する法案を準備すると発表したところで、ライシテ問題の現在地を改めて確認する機会になっている。
背景はこうである。
ここしばらく、ガザでの虐殺に抗議するパレスティナ支持派の市民団体「モントリオール・フォー・パレスティナ」が、モントリオールのノートルダム大聖堂前広場などで定期的に集会を開き、参加者による集団礼拝も行われてきた。ルゴー首相はかねてより「祈るなら教会やモスクで祈るべきで、公園や通りでの祈りは望ましくない」と発言していた。諮問委員会の報告は、市町村に判断を委ねるべきであると提言していたが、ルゴー政権は法制化による禁止に踏み切ろうとしている。
この動きに対し、カナダ自由人権協会は、信教の自由や表現の自由を脅かすおそれがある、と批判している。カナダ全国ムスリム会議会長は「通りでの祈りが問題視されるのはムスリムの場合だけ」と指摘する。カトリックのモントリオール大司教も政府の方針に懸念を示し、祈りを私的領域に限定することは社会における自由の空間を縮小することになる、と主張している。
一方、ケベック・ライシテ運動会長は、公共空間が特定の宗教団体に占拠されるのを防ぐのは正当だとして政府の方針を支持する。極右系オンラインメディアは、「モントリオール・フォー・パレスティナ」を原理主義的組織のように演出している。『ジュルナル・ド・ケベック』紙が9月11日に報じた世論調査では、公共空間での祈りを「全面的に禁止すべき」と答えた人が43%にのぼった。
これは日本とも無縁ではない問題である。
今年6月、熊本県のムスリムが、留学生や技能実習生の増加を背景に、これまでモスクで行ってきた犠牲祭の礼拝を初めて熊本城の二の丸広場で実施した。SNSにはムスリム嫌悪が表出された投稿も少なくなかった。
宮城県では、村井嘉浩知事がムスリムのための土葬墓地建設を計画して議論を呼んでいる。1万7000筆を超える反対署名を県庁が受取拒否する事態も報じられ、土葬墓地問題は10月の知事選の争点にもなりつつある。
私が驚いたのは、村井知事の「日本人は一度海外で生活し、差別などを経験すればいい」との発言に批判が殺到したことである。マイノリティの立場に身を置いてみること、せめて想像してみることは、共生に不可欠の身の処し方であるはずだ。
よく言われる日本人の宗教的寛容は、なぜこういう場面では発揮されないのか。他方、ムスリムとの共生が経済的関心に引きずられて、都合よく多文化共生を唱えてはいないかも自問すべきだろう。人権感覚が社会に根づいているのか、ムスリムを将来の社会の構成員と考えているか。これらはケベックと日本を比較したときに浮かび上がる論点である。