東欧とモロッコのユダヤ人 複数民族の共存を阻むもの
北海道大大学院教授 櫻井義秀氏
6月28日から7月13日までバルト三国の一つであるリトアニア(カウナス)と北アフリカのモロッコ(ラバト)に行った。最初の1週間は国際宗教社会学会(ISSR)に出席し、2週間目は世界社会学会議(ISA)に出てそれぞれ研究報告をした。7月17日から21日までさらに5日間ソウルに行って東アジア宗教社会学会(EASSSR)にも参加した。
さすがに64歳の私にとってこのスケジュールは厳しく、帰国後の時差ボケと疲労で今に至るまで不調であり、モロッコで固いパンをかじって前歯が欠け、細菌に感染したようで足指が腫れるなど、体を元に戻すのに2カ月はかかりそうである。
しかし、この小旅行を通じて海外の研究者と旧交を温め、初めて訪れたバルト三国とアフリカの土地で旧市街を歩き、歴史や地域の文化を垣間見たのは得がたい経験だった。
ヴィリニュス駅で偶然に遭った東大の伊達聖伸先生と田中浩喜君と共に、観光地化されたユダヤ人街を歩きながら、ヴィリニュス在住のリトアニア研究者である重松尚さんから、東欧やスラブ地域でのポグロム(ユダヤ人迫害)やゲットーの説明を受けた。残されたシナゴーグの壁にはハマスに誘拐されたか殺害された人たちの顔写真が飾られ、イスラエル支持を表明していた。ただし、ナチスによる民族浄化は、ガザでイスラエルによって繰り返されている。
モロッコ行きでは、エールフランスのストライキでラバト便がキャンセルされ、急遽カサブランカ便に振り替えたところ、アムステルダムからオーバーブッキングで乗り継げず、荷物だけスルーで一足先に行ってしまった。1泊後、夕方便でカサブランカ入りし、荷物を取り戻した。翌日半日旧市街(メディナ)を歩いてからラバトに電車で移動、2日遅れである。
しかし、元々観光するつもりだったカサブランカをクリアしたので、世界遺産でもある古都メクネスを学会最終日に訪ねることができた。メディナとメラー(ユダヤ人街)探訪が目的であった。新中間層となったムスリムのアラブ人は新市街に出て戸建てやマンションに居住しているが、旧市街は相変わらずの活気がある。
他方で、20世紀初めに30万人はいたユダヤ人は、1956年のモロッコ独立後と1961年にユダヤ教徒を積極的に保護したムハンマド5世が死去した時に、20万人がイスラエルに移住した。その後、イスラエルでの同胞が中東戦争の惨禍と厳しい入植生活をしているのが伝わって、現在まで約1万人を残して西欧諸国と北米や南米に移住している。その空いた街区に中下層の住民が住んでいるらしく、歩いてみても階層差を感じた。
モロッコにはローマ時代からユダヤ人が居たとされ、原住民のベルベル人、8世紀に流入したアラブ人と共存し、独自の共同体を形成してきた。しかし、イスラーム、ユダヤ教それぞれで国民国家化が進むと再び移動が始まった。
世界に離散したユダヤ人の歴史に思いをはせ、複数の民族や宗教の共存を阻む国家のあり方を考えた旅だった。