社会的支援と宗教 救われると信じられるか(10月24日付)
社会的な諸課題に関連して宗教者が困難な状態にある人などを支援するということと、それが宗教者によるものであるということとの関係をどう考えるかという問題が、宗教者や学者らの研究会合で度々論議を呼んでいる。
宗教者個人や団体が様々な取り組みをして社会に関わるのは、社会の論理か、宗教的意味があるのかなどが論点。「社会と宗教」との関係という、繰り返し論じられてきた問題の現場での具体的命題だが、そもそも「宗教」を社会と切り離して捉えることは、「カルト」か絶海の無人島でのお話ででもない限り現実を見失う。
宗教者当人がどう考えようが、現代社会に生きている以上、その社会制度や構造と無縁であるはずがない。それは宗教の精神の内面に関わる部分が世間を超越していることとは別であり、意識しなくとも見ないふりをしても、宗教者が例えば実際に納税やその国民の税金による行政施策の対象であること一つを想起しても自明だ。
そのような認識を踏まえた上で会合では、災害や貧困など社会課題での物質的支援において、同時に「魂の救済」を目指すという一宗教団体の実例も引き、支援活動と支援する側の信仰、伝道・布教との関係も論じられた。例えば「自分がこの信仰で救われているのだから相手にもそれを分け与えたい」と考えるのも、ある面ではもっともなことだろう。
一方で「行いによる伝道」は、言葉による教義の説教よりも、例えば「他者に親切にする」というその教えが示す本質を、現に人に親切にするという行いそのものによって伝えることに他ならない。
それが支援相手に伝わるかどうかはケース・バイ・ケース、相手次第だろう。例を挙げれば東日本大震災から広がり、医療現場など各方面で活動する「臨床宗教師」は、相手が求めない限り布教しないのが原則だ。だが言葉による布教をしなくても、寄り添うという宗教の根幹はおのずと伝わっている。
そもそも支援そのものが、基本的には困っている相手のためのものであり、支援者たる宗教者の都合や思いが先立ってもうまくいかない。これは宗教者の主体を没却することでは決してなく、実際に現場で目覚ましい活動をする敬虔な求道者や神学者である宗教者たちは次のように明確に答える。
「相手が神や仏を信じれば救われる、ではない。信じようが信じまいが、その人は必ず救われる、と私自身が確信できるかどうか、そこで自分の信仰が試されている」と。宗教の大きさ、信仰の深さはそういうところにあるのだろう。




