同志社大所蔵「二条家即位灌頂文書」を読む(1/2ページ)
同志社大人文科学研究所嘱託研究員 石野浩司氏
史実としての即位灌頂は、大嘗会「神膳供進作法」にまつわる五摂家の競合のなかで、弘安11(1288)年、二条師忠と天台座主道玄、文保元(1317)年、実相院増基と鷹司冬平によって創始される。両統迭立期、西園寺流(西園寺家・洞院家)に天皇外戚の地位を奪われた摂関家による「二神約諾」的な示威行動とみられる。
はからずも、貞和5(1349)年、南北朝の争乱により大嘗会を斎行できなかった崇光天皇に対して即位灌頂を伝授したのも、文和2(1353)年、神器なしに践祚した後光厳天皇へ即位灌頂を、同3(1354)年、神膳供進作法を伝授して大嘗会を再興したのも関白二条良基であった(小川剛生『二条良基研究』2005年)。
慶長16(1611)年、後水尾天皇の即位式で、二条家と近衛家は伝授をめぐり争い、大御所家康の裁定で二条昭実が即位灌頂を伝授した。貞享4(1687)年、東山天皇の即位では、二条綱平は伝授の資格を疑問視され、一条兼輝・近衛基煕と争論、霊元上皇によって二条家の伝授が認められる。
享保20(1735)年、桜町天皇の即位でも、近衛家久は即位灌頂を「執柄の臣」(現任の摂政・関白)の権能であると主張するが、これを中御門上皇は却下する。ここに即位灌頂は二条家に固有な職能「家業」として確立したとされる(山口和夫『近世日本政治史と朝廷』2017年)。かかる「享保の勅裁」を導き出した訴訟文書が、同志社大所蔵「二条家即位灌頂文書」(重文)の基底部分にあたる。
近衛尚子(新中和門院)を生母とする桜町天皇は、天皇外戚を摂家に独占させる方針により、桃園天皇生母の姉小路定子に優遇(准三宮)を与えなかった(石田俊『近世公武の奥向構造』2021年)。典侍定子は歿後に女院号「開明門院」を追贈されるも、嫡流陵墓「泉涌寺月輪陵」に埋葬されていない(拙稿「泉涌寺における位牌堂「霊明殿」の創祀と発展―泉涌寺へ集約される天皇家の喪葬―」(『日本研究』第65集、2022年)。
桜町天皇の女御である二条舎子(青綺門院)は二条吉忠の娘で、享保20(1735)年、吉忠から即位潅頂を受けた桜町天皇は、宗熈が21歳で早世して口伝を喪失した二条家に対して返伝授にのりだす。桜町天皇宸翰「即位灌頂切紙」(二条家文書〇〇一・〇〇二)は、延享元(1744)年に二条宗基が拝領した宸筆印信の実物である。
その二条宗基も宝暦4(1754)年に28歳で早世すると、青綺門院御所が預かる「伝授筥」は九条尚実を経由して宝暦12(1762)年、二条重良に返還される。二条家即位灌頂文書の姿態は、この九条尚実「伝授筥」の伝来に由来するものである。
小野の隨心院は摂家門跡で、24世「増孝」は九条兼孝の次男、25世「栄厳」は九条幸家の四男であった。27世「尭厳」は九条輔実の三男(末男)に生まれ、享保16(1731)年に隨心院に入室得度して権僧正まで累進していたが、27歳の寛保3(1743)年に勅命で還俗、甥の稙基の養子となって九条家の当主を継承して「九条尚実」と改名する。
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