東洋的現象学としての井筒「東洋哲学」(2/2ページ)
天理大名誉教授 澤井義次氏
このように意識・存在の多元的・重層的な意味構造は、社会慣習的な言語の表層的意味から「アーラヤ識」的な深層的意味にまで及ぶ。社会慣習的意味コードは、私たちの心の中にある「文化的無意識」の領域に沈澱して、私たちの存在認識を枠づける。その「文化的無意識」の領域を、井筒は「言語アラヤ識」と呼ぶ。それは経験的意識の地平にいまだ出現していない「意味可能体」、すなわち社会慣習的意味コードに組み込まれていない「浮動的な意味の貯蔵所」を意味する。つまり、社会慣習的な意味は、深層意識における「言語アラヤ識」にその基底をもっているのだ。
井筒「東洋哲学」の重要な特徴は、存在リアリティが多重多層的構造を成している点にある。井筒が意味論的分析によって目指したのは、日常言語では理解し切れない宗教思想を、表層意識の次元を超えて深層意識の次元にまで遡って明らかにすることにあった。それはまさに彼独自の「東洋的現象学」の視座であると言わなければならない。
東洋思想の伝統には、禅宗の坐禅とか、ヒンドゥー教のヨーガ、宋代儒者の静坐、『荘子』の坐忘など、意識の深層を拓く伝統的な修行形式がある。東洋の哲人たちは、伝統的な修行をとおして、深層意識次元を体験的事実として拓き、その深みの地平から、存在の多層構造を眺めることができた。井筒はこうした東洋思想の構造を意味論的に「意識と存在の構造モデル」として具体化し、その意味構造を探究した。
井筒は伝統的な東洋思想の基盤を成す「渾沌」「空」「無」「理」などのキーターム群を選択し、それらの語を主要な構成要素として、有機的な意味連関ネットワークを構築しようとした。彼は東洋思想を「本質」否定のキーターム群と「本質」肯定のキーターム群という二つの意味論的カテゴリーに大別する。それら二種の意味論的カテゴリーは、それが「本質」肯定であれ「本質」否定であれ、「存在のゼロ・ポイント」すなわち「意識のゼロ・ポイント」を基盤として、井筒「東洋哲学」の構造を構成している。「本質」否定の場合は、コトバが「本質」喚起的に働くのに対して、肯定の場合は、「本質」指示的に働くとされるだけの違いであるという。
東洋哲学の有意味的な存在空間は、宗教学者のミルチャ・エリアーデが言う「コスモス」であり、その原初的かつ根源的な形態は「ヌーメン的空間」である。井筒はそれを一つの形而上的・宗教的な存在体験の所産として捉える。存在が「コスモス」として生起する以前の「原初の浮動的無定形状態」、秩序以前の無秩序を、井筒は「アンチコスモス」と呼ぶ。それはコスモスに敵対する無秩序ではなく、コスモス成立の前に、コスモスが成立する場所としての根源的無秩序を意味する。それはコスモスの有意味的構造の奥底にひそんでいて、そのロゴス的秩序を内面から解体しようとする。多くの伝統的な東洋思想では、「存在は夢である」と言われるが、「夢」とか「幻」のメタファーが用いられるのが東洋哲学の特徴であるという。
事物事象のあいだに決定された区別の線が引かれていると言うのは、表層的存在論の立場である。ところが、存在の深層の立場から見れば、全ての存在の境界線は人間の分別意識の所産である。井筒は意識・存在の全体を、主・客の区別をはじめ、全ての意味分節に先立つ「未発」の絶対的未分節の根源性において捉えようとする。日常経験的意識から出発して、ついに「意識のゼロ・ポイント」に達し、そこからまた、日常経験的意識に戻ってくる。「分別」と「無分別」の同時生起こそが、東洋哲学における思惟の究極的なあり方を示している。井筒が「二重の見」と呼ぶ意味論的パースペクティヴは、先に挙げた現象学者・新田の言葉を援用すれば、「自己直観と世界直観に関する井筒の極限化された解釈」である。それは井筒の哲学的意味論の視座では、「存在解体」後にもたらされる存在・意識の解釈を示すものである。
井筒の哲学的意味論は、「生きられる世界」へと立ち帰ることによって、意識・存在の深みを捉えようとする現象学的視座を基盤としている。こうした意味で、井筒「東洋哲学」の試みはまさに「東洋的現象学」と呼ぶことができる。さらに伝統的な「東洋」の枠組みを再解釈することで、いわば「世界哲学」の構築への道を展望していたとも言えるだろう。