AIとの付き合い方 人間相互の共振の大切さ(9月12日付)
最近、インターネットでの検索の際に、AIによる要約というのが最初に出てくることが多くなった。AIの回答は知りたいことを手短に伝えてくれて便利な半面、安易に情報が得られるので、こちらの探究心を削ぐようなところもある。
参考までにAIとの付き合い方を検索してみると、「AIの特性を理解し、最終的には人間が判断して調整を行うことが重要です」(大意)というそつのない回答が、AIによる要約として出てきた。AIとの付き合い方をAI自身に教えてもらうのは、何とも皮肉な感じがするが、確かにその通りであろう。まさにこうして先回りして回答をお膳立てしてくるところが、AI依存の危うさというものである。
AIで法話や説教の内容を生成し、それを用いて僧侶や牧師が話をする時代がすでに来ている。いや、もうすでにYouTubeでは、僧侶や牧師に登場してもらわなくても、動画を作成して流すことは可能であり、実際そのように思われるチャンネルも見いだされる。こうした生成AI利用の法話や説教に、一体どこまで生身の人間が関与しているのだろうか。AIによる法話や説教の方が、実在の宗教者よりも仏の教えや神の言葉をうまく語ることができるという意見もある。近い将来、AIと対話しながら宗教的アドバイスを受けられる時代が来るかもしれない。
でも、どんなに巧みにそれが行われたとしても、生身の人間の関与が少なければ少ないほど、この巧みさがまさに落とし穴になる。人間が語る場合には、時にぎこちなさやしっくりこない部分が生じる。これが人の個性というものだ。宗教者もまた、皆個性的な存在である。そして信者もまた、同じく個性を持つ生身の人間である。両者の人格的要素を介して、生身の人間同士が共振し合う。それは相互主体的な関わりである。
哲学者の中村雄二郎は、この相互的な人間の関わり方を、演劇の喩えを用いてパフォーマンスと呼んだ。それは臨床の知の特徴の一つであるが、信者の宗教的な主体性も、生身の宗教者との相互作用を介して形成されるのである。
これからは宗教者もAIを使いこなせないといけないといわれる。だが、宗教者は信者を神仏へといざない、導いていく導師である。宗教的アドバイスもAI頼りではなく、自らが咀嚼し消化したものでなければ、信者との相互主体的な共振が起きないだろう。宗教者に求められるのは、どこまでも神仏との生きた回路となることなのである。