法華コモンズのめざすもの(1/2ページ)
東洋大名誉教授・法華コモンズ仏教学林理事長 西山茂氏
「法華コモンズ仏教学林」の学是は、日蓮仏教の「再歴史化」(具体的には現代的蘇生)である。当学林は、10年前に、法華宗諸派や日蓮宗諸派・日蓮系新宗教などの宗派横断的な学び舎として創られた。宗派横断的なところを捉えて、「コモンズ」という。
もともと「コモンズ(Commons)」とは、入会地、具体的には共有地とか共有林のことで、15世紀末から19世紀前半のイギリスで2度起こって労働力移動の観点から資本主義成立の淵源となったといわれている「エンクロージャー」によって、共有の耕地や林・原野などから追い払われた農民たちのもとの入会地を意味していた。入会地は、共有で生活する農耕共同体の名残である。
つまり「コモンズ」と名乗るのは、この学林が法華の共有地として、宗派の壁を越えて共に集い合う場であることを表している。そこで、あらためて「法華コモンズ仏教学林」のめざすものについて考えてみたい。
当学林の目的は、日蓮遺文その他を「学ぶ」ことが主目的である。その意味で、「実践」は、当学林が直接的にめざすものではない。とはいえ、学林は、日蓮仏教の「実践」と無関係ではない。否、そのための学び舎が当学林であるというべきであろう。
では、日蓮仏教の「実践」とは何か? 日蓮仏教の眼目が、個人的には題目受持による名字即成仏であり、社会的には「立正」による「安国」(仏国)の成就=社会成仏にあることは明らかである。
日蓮仏教の場合の個人成仏とは、身口意三業にわたる題目受持による名字即の成仏である。これを証す日蓮遺文はあまたあるが、最重要遺文と目されている『観心本尊抄』には、「釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り與へ給ふ」(自然譲与段)とか、「一念三千を識らざる者には、佛大慈悲を起して、五字の内に此の珠を裏み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(末文)という文言がある。
しかし、日蓮仏教は、来世往生を願う仏教や、人間に内在する「仏性」のみに注目して「教」(仏種)を見ない野狐禅や、ヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメント(潜在的人間力回復運動)とも無縁である。日蓮仏教は、個人の救済のみではなく、あくまでも法華経に依拠した「社会成仏」をめざす仏教である。
日蓮遺文に、「命限り有り、惜しむべからず。遂に願うべきは仏国なり」(『富木入道殿御返事』、真蹟なし、録外)とある。これについて、花野充道(『法華仏教研究』誌主宰)は、「真跡なし」ではあるが、日蓮仏教の特質を表わした明文として、次のように紹介している。
「日蓮の宗教の特質を一言で言えば、『安国を実現するために立正の戦いをする』という論理である。悟りを求めて、一念三千の観念観法を修しているだけでは、現実の国家の矛盾は何も解決できない。現実は国家に三災七難が起こり、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいるではないか。それを仏教者は見て見ぬふりをするのか。権実・正邪の混乱によって、国土に謗法が充満し、それによって災難が頻発しているのだから、権実の戦いを起こして正邪を決し、我此土安穏の仏国土を成就することこそ大乗菩薩の使命である。これが『立正安国の行者日蓮』の信念であった」(2021年8月発行の『法華コモンズ通信』第7号所載、花野充道「巻頭言」の冒頭)。
「立正安国」実現の願いについては、『立正安国論』をはじめ、これを証する日蓮遺文は、実に多数ある。