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戦没者の遺骨帰還と「国の責務」 ― なお海外に113万柱(1/2ページ)

帝京大 学修・研究支援センター准教授 浜井和史氏

2017年7月5日
はまい・かずふみ氏=1975年生まれ。京都大大学院指導認定退学。博士(文学)。外務省外交史料館勤務、帝京大総合教育センター専任講師を経て2017年から現職。専門は日本近現代史・日本外交史。著書に『海外戦没者の戦後史―遺骨帰還と慰霊』(吉川弘文館、14年)など。

2016年4月、「戦没者の遺骨収集の推進に関する法律」(以下、推進法)が施行された。従来、遺骨帰還事業は厚生労働省(旧厚生省)を中心に民間団体等の協力を得て実施されてきたが、戦没者の遺骨処理を規定する法律が制定されたのは今回が初めてである。すでに推進法にもとづく基本計画の閣議決定や指定法人の設立、DNA鑑定の対象拡大などの動きがあり、遺族の高齢化や世代交代が進むなかで同法への期待は高まりつつある。

しかし一方で、戦後70年以上を経て、今後収容される遺骨の数が飛躍的に増加することは困難な状況にあるといえるだろう。推進法は「国の責務」を明記して遺骨帰還事業に取り組むとしているが、この文言は過去においてもしばしば強調されてきたものである。これまでに収容された遺骨は約127万柱で、約113万柱の遺骨がなお未帰還とされているが、果たして政府は長期的な戦略のもとで「国の責務」を果たしてきたのであろうか。ここでは「国の責務」の歴史的文脈に着目しながら、戦後における遺骨帰還のあゆみを振り返ることとしたい。

明治以降、日清・日露戦争を経て旧日本軍は、海外で戦没した死者の処理に関して、その遺体を収容し、火葬のうえ遺骨を本国に送還するという方式を確立した。しかし、アジア・太平洋戦争期に戦局が悪化し、1943年のガダルカナル島からの撤退とアッツ島での「玉砕」を転換点として、軍部は戦場での遺体収容が不可能であることを前提とした戦没者処理を行うこととなった。その結果、戦争末期から終戦後にかけて、戦場の砂や土、霊璽などを納めたいわゆる「空の遺骨箱」が続々と遺族のもとへ届けられたのである。

敗戦により軍が解体し、占領下に置かれた日本政府は、比較的早い段階から、連合国によって埋葬された海外戦没者の遺骨処理について検討を開始していたが、GHQ/SCAPの都合によりすぐには実現しなかった。戦没者の遺骨処理問題が本格的に動き出したのは、51年9月の平和条約調印を迎えてからのことである。多数の遺骨が「野ざらし」になっているとの報道をきっかけとしてその対応を求める世論が高揚し、政府は遺骨処理計画の本格的な検討に着手した。その「第一案」(52年5月)では「〔遺骨の〕収容送還は全国民の熱願であり、又国としてはこれがためにあらゆる手を尽すべき義務を負っている」と述べ、「日本国政府がその責任において」具体的な処理を行うことが明記されていた。また、衆参両院の本会議で採択された決議の趣旨説明においても、「なし得る限りの手を尽し、戦没者の遺骨を納めて、遺霊のすべてがその故山に安らかに眠り得る」ようにすることは「政府の当然の責務」であることが指摘されたのである。

このように戦没者の遺骨を収容し本国に送還することは、当初より「国の責務」であることが強く意識されていた。しかし、50年代においては米国の要請を受け入れ、一部の遺骨を「象徴遺骨」として収容する方針が採られた。これにもとづき53年から58年にかけて、中部太平洋諸島、東部ニューギニア・ソロモン諸島、ビルマ・インド、西部ニューギニア・北ボルネオ、フィリピンの各方面に1回ずつ遺骨収集団が派遣され、約1万2千柱の「象徴遺骨」が収容された。

「象徴遺骨」の収容方式は、当時の日本の経済力と遺骨収集団の派遣先となる相手国の事情を踏まえ、かつ遺骨の帰りを待つ遺族たちの想いにもある程度応える措置であった。ただ問題は、政府がその先にどのようなビジョンを持ち得ていたかという点であった。戦争終結から十数年が経過し経済成長へと向かうなかで、政府が「国の責務」として遺骨処理にさらなる一歩を踏み出す条件はそろいつつあった。しかしその後政府は、「象徴遺骨」の収容をもって収集団の派遣は「一応終了」したとの説明を繰り返したのである。

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