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「中外日報」創刊前夜の真渓涙骨 生誕150年に寄せて(2/2ページ)

龍谷大教授 中西直樹氏

2019年10月18日

当時、京都の普通教校は文学寮に改組されており、校内では、反省会が『反省会雑誌』(のちの『中央公論』)、海外宣教会が『海外仏教事情』を刊行していた。しかし、仏教新聞はなく、両会の関係者は、より広い情報をより早く伝えるため、「奇日新報」の経営を引き継いだと考えられる。編集人を務めた神代洞通は、安政2(1855)年に福岡県糸島の本願寺派教念寺に生まれ、七里恒順のもとで宗乗余乗を修めた後、普通教校の開校とともに教員に就任した。海外宣教会発足後には、その幹事も務めていた。反省会本部、海外宣教会本部、新報社(「奇日新報」発行元)は、いずれも西本願寺門前の玉本町の同じ場所に置かれ、姉妹団体の関係にあった。

明治22年11月、「奇日新報」は「開明新報」と改題されて日刊紙となった。現在、「開明新報」は、京都府立総合資料館にわずか3号分の存在を確認するのみであり、その実態は不明なことが多い。しかし、『反省会雑誌』『海外仏教事情』などに広告が頻繁に掲載されている。それによれば、「宗派党派に関係なく公平無私の意見」によることを表明し、香川の今里游玄、熊本の藤岡法真、大阪の桜井義門、福岡の秦法励、長野の宮本恵順ら、各地の本願寺派有力者が購買委員を引き受けていた。

仏教界全体への貢献を意図する「開明新報」が手がけた事業に、明治25年刊行の『日本仏教現勢史』がある。この本は、全国の読者に仏教諸団体の調査を呼びかけ編纂されたもので、200を超える団体の概要が記されている。ただ、少年教会と婦人教会は多数に及ぶため掲載を見合わせ、改めて一書にまとめ刊行する予定であった。しかし、刊行には至らなかったようである。

『日本仏教現勢史』の編者は「月輪正遵」と記されている。本書には、荻野独園(臨済宗)、町田久成(天台宗)、渥美契縁(大谷派)、土宜法龍(真言宗)ら各宗派の高徳のほか、大内青巒、中西牛郎ら有力居士が題字や賛辞を寄せている。賛辞のなかには、編者の月輪正遵のことを「望天」と呼称している者もいる。この点から、「月輪正遵」を涙骨とみて間違いないであろう。「月輪」は涙骨の母方の姓であり、長男でありながら住職を継ぐことを拒否した涙骨が、あえて母方の姓を名乗ったと推察される。

涙骨は一時的であるが普通教校に在学しており、「開明新報」の関係者とは旧知の間柄であったと考えられる。そして、この『日本仏教現勢史』編集を通じて得た人脈と、地方仏教界の情報とは、のちの「中外日報」の編集に大きく役立ったことであろう。

しかし、「開明新報」も長くは続かなかった。財政面など、多くの苦難に際会したようだが、やはり明治25年7月に起こった文学寮改正事件の影響が大きかったようである。この事件は、藤島了穏寮長と中西牛郎の反目に端を発し、文学寮の全教員が解職となった。これにより、普通教校・文学寮以来の開明派は宗派から一掃された。やがて、海外宣教会は解散に追い込まれた。「開明新報」は「京都毎日新報」と改題され、さらに明治26年3月には、「本山月報」と合併して「京都新報」と改められ、本山執行部の介入が強まった。

涙骨はどうしていたのであろうか――。涙骨は『日本仏教現勢史』以降、数冊の本を出版し、雑誌への投稿も続けていたようである。特に興味深いのは、明治28年に「月輪望天」名義で『仏教最近之敵― 一名、天理教之害毒』という本を出していることである。驚いたことに、この本にのちに天理教に入る中西牛郎が序を寄せている。宗教に無節操な牛郎らしいエピソードといえよう。

明治29年12月、本願寺派開明派の最後の拠点であった反省会本部が東京に移転した。翌30年4月には、隔日刊行されていた「京都新報」が廃刊となった。かわって、同年7月25日から「教海一瀾」(現「本願寺新報」の前身紙)が創刊されたが、月2号の発行に過ぎず、紙面も宗派広報誌としての性格の強い雑誌であった。

ときあたかも、宗派の利害意識が強まり、諸宗派の協調関係が崩壊に向かいつつあった。特定の宗派に偏らない仏教ジャーナリズムが消滅した京都で、涙骨は「開明新報」の伝統の復活を期して、同年10月1日に「教学報知」を創刊したと考えられるのである。

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