私たちが作る豊かな森(2/2ページ)
京都大化学研究所特定助教・法華宗(真門流)宗学研究所員 峰尾恵人氏
森林計画制度には大径材生産のための具体的仕組みが欠如しており、国有林の大材生産政策は世論や政策課題に規定されて非連続的に推移してきた。そもそも、大径材の生産にかかる長期への対応は、単年度主義や頻繁な人事異動を特徴とする政府にとって困難である。従って、政府に依存することも危険である。
筆者は、大径材を将来にわたって必要とする宗教界こそ大径材確保に主体的に参与すべきであり、そうしなければ伝統木造建造物を利用する営みがやがて絶えてしまうと考える。日本では伐採量よりも成長量が大きいために森林資源の量は増加しているが寺社建築用材に利用可能な形質の木材がどれだけ存在するかは不明である。
世界的には森林面積は減少傾向で、大径材が賦存する天然林は保護対象とされる傾向にある。つまり、大径材がこれからも供給される保証はなく、見通しはむしろ厳しい。その解決策を市場にも政府にも頼れないのならば、宗教界自身がそれを実行する必要がある。
ここで筆者は、寺社自らが森林を所有し経営すべきだと主張するのではない。一部には寺社といえば森林が付き物との印象があるかもしれないが、木材生産を行いうるだけの大規模な森林を所有する寺社は例外的で、ましてその森林を経営する力のある寺社は数え上げられるほどしかないのではないか。歴史的には寺社が農地と並んで森林を領有したこともあったが、明治期の二度の社寺上地によって寺社と森林の関係は切断され、それを再生しえた例は少ない。林野庁の試算では現在の一般的な人工林経営は赤字とされ、日本の林業は衰退を続けている。このような現状で、個別の寺社が森林に直接関与して実行できることは限られている。しかし信仰や修行の場である社殿や堂塔が未来においても木造であってほしいと考える宗教者は多いと思われる。実行すべきことは何か。
第一に、行動の必要性の確かな認識である。伊勢神宮遷宮用材確保策の背景に持続不可能性への認識があったことは前述した。京都の清水寺が林業家と連携しケヤキ材生産の取り組みを開始したのは、400年後には材の大規模な取り換えが必要になるという認識があったと聞く。木材は長寿命で再生可能だが、永久に利用可能なわけではないし、生産量が消費量に釣り合わなければやがて枯渇してしまう。生産量を担保するために宗教界の参与が必要だ。
第二に、個別の寺社、宗派や教団、地域の仏教界のような団体、それらを越えた連合といった様々なレベルでの実行可能なことの模索である。寺社が森林を所有していたり、信徒や檀徒の中に同志や篤志家がいるかもしれない。個別の寺社には困難でも、地域や教団、その連合では何かできるかもしれない。様々なつながりの中で方策を模索しできることを行う。これら2点が筆者の提案である。
日本の宗教には一神教とは異なる環境思想が存在し、それが自然と共生する未来への手がかりになるのだ、という主張が存在する。確かに、神道や日本の仏教には森林と親和的な側面が存在する。しかし本稿で論じたように、大局的に見れば寺社は持続不可能な木の文化の一員であった。
2001年の環境省の報告によれば、全国の巨樹・巨木の所有者の過半は寺社であった。このことは、寺社や信仰が一般的な人間社会の時間の流れを超えて、木や森と共存しうる貴重な存在であることを示している。大径材生産のための長伐期の森は、心を打つ美しさをそなえ、貴重な動植物のすみかとなる。例えば、神宮宮域林には、絶滅危惧種を含む多様な動植物が生息している。信仰や文化への思いと行動が豊かな森を作り、そのことによって信仰や文化が継承されてゆく。日本の宗教界には、そのような未来を実現する力があると信じている。




